悲惨な思い出をしぼり出すように語る佐野さん(左)
釜石市の合唱グループ「翳(かげ)った太陽を歌う会」(種市誓子会長、会員12人)は20日、「戦争体験者のお話を聞く会」を小川町の働く婦人の家で開き、米英軍による2度の釜石艦砲射撃(1945年)を経験した大町の佐野健司さん(86)が語る戦争の悲惨さに耳を傾けた。
旧制釜石中学2年だった14歳の時に艦砲射撃を体験した佐野さん。2011年の東日本大震災でも、大町で経営していた酒店が津波で流失。仮設商店街での営業を経て15年に店舗を再建している。
佐野さんは戦時中、父が営んでいた酒店で運送用に飼っていた馬を軍に供出したり、防空壕(ごう)を子どもたちが造らされたり、食料や物品が乏しく苦しい生活の様子を紹介した。空襲警報が頻繁に鳴るようになると、体が弱かった父親は一足早く甲子町松倉に疎開。7月14日の1回目の艦砲射撃や機銃掃射では、母親と酒店で働いていた少女と血まみれになりながら山側の薬師公園に避難した。「助かった。生きていた」。再会した時の父親の姿が忘れられないと言葉をかみしめた。
「苦しい。助けて」。8月9日の2回目の艦砲射撃で、避難した防空壕ごと射撃されて犠牲になった人たちのうめき声。「もうやめて」。火葬の際でも灯火管制で水をかけて中断せざるを得なかった状況で聞かれた犠牲者遺族らの悲痛。「2回目は地獄だった」と声を詰まらせながら語り、平和を引き継ぐことの大切さを訴えた。
同グループは2005年に活動を始め、今年で14年目。市戦没者追悼式での献歌、小学校でのコンサートなどを行ってきた。その中で歌い継いできた合唱組曲「翳った太陽」は、市内の戦争体験者2人の短歌や絵手紙を元に創作されたもの。会員のほとんどが戦争を体験していない世代で、曲への理解を深めようと同様の会をこれまで5回行い、体験者の心に触れながら戦争について学んできた。
震災で一時活動が中断。戦争の愚かさ、平和の尊さを訴えるこの組曲も、戦災の生々しい惨状が震災直後の情景と重なり、歌えなくなった時期もあったという。
計6曲の組曲は全17分。今年の市戦没者追悼式で釜石中生徒有志と組曲を合同合唱する予定で、練習を重ねている。
佐野さんの話は、遺体を火葬した場面などが組曲と重なったという。定内町の佐野順子さん(65)は「言葉にならないつらさ、詞に込められた思いへの理解を深められた」、種市会長(70)は「今は何が起こるか分からない時代。若い人に伝えていかなければ」。同グループ講師で作曲者の最知節子さん(75)は「人間の尊厳を無視するように、青春に土足で踏み込んでくる戦争の悲惨さを多くの釜石の子どもたちに語り継いでいきたい」と思いを強めていた。
(復興釜石新聞 2018年4月25日発行 第684号より)
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