東日本大震災から11年となった沿岸被災地―。多くの尊い命が失われたあの日を思い、今年の「3・11」も各地で犠牲者への祈りが続いた。釜石市内で最も多くの犠牲者が出た鵜住居地区。市内外の支援者らが設けた追悼の場に多くの人が足を運び、天に眠る御霊にそれぞれの思いを込めて手を合わせた。
竹灯籠に込める鎮魂の祈り 釜石仏教会 祈りのパークで慰霊行事
「釜石仏教会」竹灯籠による震災犠牲者慰霊行事
鵜住居町の釜石祈りのパークには11日夕刻、約1260個の竹灯籠がともされた。市内の震災犠牲者の芳名板を設置する広場に「忘れない」の文字が浮かび上がり、遺族らが大切な人を思い、焼香して手を合わせた。
釜石・大槌地区17寺院が宗派を超え組織する釜石仏教会(会長=大萱生修明・大念寺住職)による慰霊行事。竹灯籠は、協力を申し出た同市大只越町「仙寿院」の檀(だん)家川崎喜八さん(83、鵜住居町)から一昨年寄進された。以来、市内外から灯籠の持ち込みや送付があるという。灯籠には、訪れた人が故人を送る言葉などを記している。
夕闇に灯籠の明かりが浮かび上がると、同会の僧侶らが読経。訪れた人たちが焼香し、犠牲者の冥福を祈った。同市の震災犠牲者は1064人(行方不明、関連死含む)。うち、同パークには1001人の芳名が掲げられる。
僧侶らが読経し、来訪者が焼香。犠牲者の御霊に手を合わせた
辺りが暗くなると、竹灯籠を並べて作った「忘れない」の文字が浮かび上がった
鵜住居町で、妻ヨシエさん(当時46)、長男昭一さん(当時28)を亡くした小笠原克己さん(62)。温かな灯籠の明かりに包まれた同パークを長女咲さん(18)、次男大誠君(16)と訪れ、2人の芳名板の前で11年目の祈りをささげた。震災時、小学1年生だった咲さんは今春高校を卒業し、4月から進学で仙台市へ行く。「今日はその報告に…」と成長した愛娘を見つめた。
同町に暮らしていた小笠原さん一家。地震発生時、大誠君を連れ車で仕事中だった克己さんは一度家に戻り、夜勤明けで寝ていた昭一さんに避難を呼びかけた後、咲さんが心配で鵜住居小へ。児童らは全校避難を開始しており、そのまま一緒に高台へ逃れた。「2人で何とか逃げていてくれ―」。まちが津波にのまれるのを見ながら、祈るしかなかった。ヨシエさんと昭一さんは避難が間に合わなかったものと見られる。
あれから11年―。「何も考えず、残してくれた宝物(咲さん、大誠君)を一生懸命育てることしかなかった」。当時4歳だった大誠君は高校1年生に。今は甲子町に親子3人で暮らす。
「震災の記憶は断片的」と話す咲さん。「急に3人になってすごく寂しかった。最初はずっとお通夜みたいな感じで…」。3人を再び笑顔にしたのは、震災前の家族の姿。「ママとお兄ちゃんいるころは常に笑っていたからな。暗いのは嫌いだったから」と克己さん。
月命日、家族の誕生日には2人の墓参りを欠かさない。「とにかく3人で、いつもケラケラ笑いながら生きている」。天国で見守る2人に「心配しないで。大丈夫」と思いを伝えた。
鎮魂の花火「白菊」根浜の夜空で開花 犠牲者、遺族の安らぎに
震災犠牲者にささげる鎮魂の花火「白菊」=根浜
震災犠牲者を追悼する花火「白菊」が11日夜、鵜住居町根浜海岸で打ち上げられた。地元有志らでつくる、3・11祈りと絆「白菊」実行委員会(柏﨑未来委員長)が行う3年目の取り組み。花火玉には、地元の小中学生が寄せたメッセージが貼り付けられ、子どもたちの願いを天空に託した。
メッセージを寄せたのは鵜住居小と釜石東中の児童生徒。震災犠牲者への思いのほか、ウクライナの戦禍、長引く新型コロナウイルス禍を受けて「戦争反対」「世界平和」、「コロナ消えろ」などの願いが54枚したためられた。打ち上げ前の日中、実行委メンバーや地元住民らが「白菊」の一尺玉に貼り付けた。
「白菊」の花火玉に小中学生のメッセージを貼る
さまざまな願いが込められたメッセージ
協力する新潟県長岡市の花火業者「嘉瀬煙火工業」(嘉瀬晃社長)によると、「白菊」は、第2次大戦でソ連(当時)軍の捕虜となり、抑留生活で多くの戦友を亡くした嘉瀬社長の父が「仲間に手向けたい」と、1990年にロシア・ハバロフスクで打ち上げたのが始まり。鎮魂の花火は、震災で被災した本県陸前高田市で2013年から5年間打ち上げられた。釜石市では20年から毎年3月11日に根浜海岸で上げられている。
「生きたくても生きられなかった―。戦争、震災犠牲者の思いは相通じるものがある。亡くなられた方、ご遺族の方双方が少しでも安らげるお手伝いができたなら」と嘉瀬社長(63)。父が残した「白菊」に魂を込める。
地震発生時刻の午後2時46分。根浜の旅館「宝来館」と高台に整備された復興団地で、集まった人たちが海に向かって黙とう。震災犠牲者の冥福を祈るとともに、海底火山噴火で津波被害を受けたトンガの復興、ロシア軍の侵攻で戦禍にさらされるウクライナの終戦を願い、両国の国旗の色の風船を大空に放った。
全員で黙とう後、「思いは一つ」と4色の風船を空に放った
鎮魂の花火は午後7時、同海岸沖の台船から打ち上げ。「白菊」3発に続き、繁栄の象徴・金色を織り交ぜたスターマインが夜空を照らした。海岸から花火を眺める人たちは大切な人を思いながら、明日からの新たな一歩に力をもらった。
「震災前よりも良いまちに」と願うスターマイン
過去と未来つなぐ「とうほくのこよみのよぶね」 釜石市長が日比野克彦さんに感謝状
11年目の開催「とうほくのこよみのよぶね」
根浜の海に「3・11」の舟形あんどんを浮かべ、鎮魂と未来への希望を明かりに託す「とうほくのこよみのよぶね」。例年は現地釜石市で、市民らが参加しあんどんを制作するが、今年は新型コロナウイルス禍で参集活動が困難なため、発案した岐阜県岐阜市の実行委が制作した小型あんどんを運び、宝来館の屋外ウッドデッキに設置した。
同活動は国内外で活躍するアーティスト日比野克彦さん(岐阜県美術館館長)が、出身地岐阜市の仲間と企画。同市長良川で2006年から行う冬至行事を東北被災地の復興の力にと、震災の翌年12年から始めた。
11日夕方の点灯に合わせ、野田武則釜石市長が宝来館を訪問。震災後、同活動のほか仮設の住宅や店舗の壁をカラフルなマグネットシートで彩る活動などを行い、市民の心の復興に貢献してきた日比野さんに感謝状を贈った。
野田市長が日比野克彦さんに感謝状を贈呈
野田市長は、日比野さんや実行委メンバーらに「被災者、市民を代表し、心から感謝申し上げたい」と話し、差し入れを手渡した。日比野さんは「過去の記憶をとどめ、未来を見つめていくという『こよみのよぶね』のコンセプトを東北にも持っていければと始めた。地元の方々には大変お世話になっている」と深謝し、継続に意を強くした。
日比野さんら岐阜の実行委メンバー。野田市長と
震災直後の大型連休に、仕事先の秋田県から三陸沿岸に入った日比野さん。以来、被災地に寄り添い続け、釜石市民と心の絆を結ぶ。11年という時の流れは、被災地に暮らす人たちの気持ちの変化ももたらしていると感じる。「前はしのぶ気持ちのほうが強かったと思うが、10年を越すと未来を意識した言葉が出てくる」。3・11は「海と出会い、思いを共有できる日。次の世代につないでいく日であってほしい」と望んだ。