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ラジオって作れるの!? 子どもらの好奇心を刺激 釜石海保、無線の仕組みを知る工作教室

釜石海上保安部が開催した工作教室で、手製のラジオを手に笑顔を見せる子どもたち

釜石海上保安部が開催した工作教室で、手製のラジオを手に笑顔を見せる子どもたち

 
 釜石海上保安部(佐々木篤部長)は20、21日、釜石市魚河岸の同保安部でラジオ工作教室を開いた。海の安全を守る業務などに欠かせない無線の仕組みを学んでもらおうと初企画。小学校中・高学年対象だったが、科学やものづくりに関心がある低学年の児童や中学生も市内外から参加した。「あんな構造で音が聞こえるの?」という不思議に触れた子どもは、2日間で計21人。目には見えなくても身近なところにある電波とその利用についても興味を深めた。
 
 教室には、一般財団法人日本航路標識協会(東京都)、日本無線(同)、サンコーシヤ(同)が協力する。21日は釜石市内の児童を中心に10人とその保護者ら約20人が参加。初めに、釜石海保の担当者が▽船舶交通の安全を守る▽命を守る海難救助▽青い海を守る環境保全活動―など「海の警察官」としての業務を説明した。学校の夏休み期間になることから海水浴での事故を防ぐための注意点も強調。夏場の気象にひそむ危険の一つ、雷の発生や落雷から身を守るすべをサンコーシヤの関係者が解説した。
 
海の安全を守る仕事、雷や電波の話に耳を傾ける参加者

海の安全を守る仕事、雷や電波の話に耳を傾ける参加者

 
 落雷のエネルギーに触れて電気、電流とのキーワードを得て、いよいよ無線、電波の話。講師は日本無線の社員が務め、船舶に搭載されたレーダーや交通系IC乗車券などを紹介しながら「電気の信号、電波は身近なところで使われている」と伝えた。電波の利用を感じられるものとして挙げたのがラジオ。待ち構えた子どもたちが工作に挑んだ。
 
ハンダごてを使ってラジオ作りに挑戦する子どもたちを大人がサポート

ハンダごてを使ってラジオ作りに挑戦する子どもたちを大人がサポート

 
 つくるのは日本無線がこの工作教室のために用意する「AM/FM 2バンドラジオ」。子どもらはハンダごてを持ち、回路基板に放送局の切り替えを行うダイヤルなどの部品を付けていった。慣れない手つきだったが徐々にコツをつかんで、1時間ほどで完成。イヤホンを付け、ダイヤルを回して探っていると雑音の中からラジオ放送が聞こえてきて、子どもは笑顔を広げた。
 
基板に細かな部品を差し込んでハンダ付けする作業を繰り返す

基板に細かな部品を差し込んでハンダ付けする作業を繰り返す

 
電波を受け取る部品づくり。エナメル線を何重にも巻いた

電波を受け取る部品づくり。エナメル線を何重にも巻いた

 
 市内の阿部理央さん(10)は「はんだを溶かして付けるのが少し難しかった。ドキドキしながら作ったけど、音がちゃんと聞こえてうれしかった。ラジオってあんな構造なんだ」と学びを深めた。印象に残ったのは雷の話。目に見えていない電流についても興味を持った様子で、「夏休みの自由研究のテーマを決めていなかったから、ヒントになった」と思考を巡らせた。
 
ハンダ付けに挑む子どもの手元を見つめる保護者の視線も真剣

ハンダ付けに挑む子どもの手元を見つめる保護者の視線も真剣

 
完成したラジオから音が聞こえてくると参加者は笑顔になった

完成したラジオから音が聞こえてくると参加者は笑顔になった

 
 日本航路標識協会の佐々木忠男常務理事・事業部長は元海保職員だったといい、東日本大震災発生時に電話回線が不通となる中、漁業無線が災害対応に貢献した事例を紹介。「いざという時に命を守るためには情報を発信すること、集めることが重要になる」と、子どもらに防災の視点も植え付けた。
 
 釜石海保の美野重和交通課長は「無線、電波をフル活用して業務にあたっている。電波は身近にあることに気づいて、無線の仕組みをさらに勉強してもらえたら。いつかは日本の技術者に。そして、誰かを、何かを助けることをやりたいと考えている若い子たちの将来の視野を広げる機会になれば。ぜひ仲間入りを」と期待を込めた。

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力を結集!核兵器のない未来へ 高校生平和大使の釜高生ら署名活動 「釜石艦砲」記憶つなぐ

核兵器廃絶を求める署名への協力を呼びかける釜石高生

核兵器廃絶を求める署名への協力を呼びかける釜石高生

 
 国際社会に平和な世界の実現を訴える「高校生平和大使」に本年度、釜石市から佐藤凛汰朗さん(釜石高2年)が選ばれた。岩手県内各地で核兵器廃絶を求める「高校生一万人署名活動」を展開中。太平洋戦争で釜石が受けた最初の艦砲射撃から79年の14日には、市内中心市街地で声を上げた。
 
 「ビリョクだけれど、ムリョクではない。署名活動によるつながり、結びつきが、やがて核兵器廃絶や戦争のない平和な社会を実現する大きな力になると信じる。協力を」
 
 「釜石艦砲」犠牲者の冥福を祈る黙とうを呼びかける防災行政無線のサイレンが市内に響いた14日午後、イオンタウン釜石前で佐藤さんが訴えた。釜高の生徒有志7人も加わり、大町広場周辺を歩いて署名集め。市民らが足を止め、「戦争はダメ」「若い人たちが頑張っているから応援しないとね」などと応じた。
 
釜石高生らの呼びかけに市民や買い物客らが応じた

釜石高生らの呼びかけに市民や買い物客らが応じた

 
機動力を発揮して地域を歩いて署名を集める生徒ら

機動力を発揮して地域を歩いて署名を集める生徒ら

 
活動をアピールする横断幕を掲げて協力を呼びかけた

活動をアピールする横断幕を掲げて協力を呼びかけた

 
 署名活動は2001年に長崎の高校生から始まり、岩手では東日本大震災後の12年にスタート。「高校生一万人署名活動実行委員会・岩手」が年間を通して呼びかけを続ける。集められた署名は高校生平和大使によってスイス・ジュネーブの国連欧州本部に届けられている。
 
 高校生平和大使は、1990年代後半に世界で核実験が相次いだことを受け、98年に長崎で始まった。佐藤さんは第27代大使として、畠山史子さん(一関一高2年)とともに声を出す。岩手からは2011年以降、毎年2人を選出し、今回で14代目。震災の教訓や復興の姿を発信する役割も担う。釜石からは12年に初選出され、佐藤さんは5人目となる。
 
「戦争のない平和な社会の実現を」と訴える佐々木さん

「戦争のない平和な社会の実現を」と訴える佐藤凛汰朗さん

 
 7月14日…最初の砲撃の日。佐藤さんが地元で活動するのは2回目だったが、「この日」に強い思い入れがあった。歴史や世界情勢に関心があり、国外で戦闘の犠牲者が後を絶たない状況に「何かできることはないか」と考え続けてきた。そんな時に学校で釜石艦砲という戦禍を学び、捕虜収容所があって外国人捕虜が労働させられていたと知った。家庭で家族の恩人の体験談を聞いたことも。「罪もない多くの命が奪われ、この地が火の海になった日の景色を忘れてはいけない」。戦争の記憶を受け継ぎ、発信する大使に使命を見いだした。
 
 この日の活動に思う。「釜石にとって14日と8月9日はただの一日ではないと改めて感じてほしい」
 
道行く人に協力を呼びかける佐々木さん(右から2人目)

道行く人に協力を呼びかける佐藤さん(右から2人目)

 
 ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃など連日の報道も気持ちを揺さぶる。佐藤さんは「戦争が日常化するのは異常だ。日本は経験した人が少なくなっているが、いつ関わってしまうかもしれない」と危惧。そして続ける。「戦争は人の意志で起こる。だから人の手で止められるはず。やり始めた人についていかず、乗っからず、発展させないようにできると思うから、訴え続ける。平和を」とひたむきな姿勢を見せた。
 
 幼少期に震災が発生し、復興の歩みとともに育った経験も活動の力にする。「生活できるまちに戻そうと頑張った人たちがいたおかげで今がある」。風化を防ぎ、悲しい記憶や犠牲が増えないよう継承し続ける大切さをかみしめる。国連本部ではスピーチを披露する予定もあり、「悲しい歴史を繰り返さないために自分の言葉で思いを訴えたい」と意気込む。
 
活動を終え充実した表情を見せる釜石高の生徒有志

活動を終え充実した表情を見せる釜石高の生徒有志

 
 活動に参加した他の生徒らも刺激を受けた様子で、「署名する意味を考えてくれていたようで、うれしかった」「地域を知る学びになった。活動を続けたい」などと感想。高校生平和大使派遣委員会・岩手の千葉伸武共同代表が見守り、「署名は数ではなく、何かをやっているという形が重要になる。多くの人に忘れさせない、記憶を継承する活動だ。めげずに呼びかけ続けることが、核廃絶の大きな力になる」と意義を強調した。
 
 本年度の第27代大使は、17都道府県の23人。各地で署名活動を展開し、8月上旬に長崎での研修を経て、同月中旬に国連欧州本部を訪問する。

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5年ぶり飲食復活 上中島こども園夕涼み会 隣の児童館が初出店 幼児~高校生共に育つ環境へ第一歩 

児童館の出店でかき氷を受け取る園児=上中島こども園夕涼み会

児童館の出店でかき氷を受け取る園児=上中島こども園夕涼み会

 
 釜石市立上中島こども園(楢山知美園長、園児40人)の夕涼み会は13日、園庭で開かれた。新型コロナウイルス感染症の影響で休止していた飲食を5年ぶりに復活。隣接する上中島児童館(鈴木崇館長)は、同館を利用する児童生徒らによる出店を開き、参加者を楽しませた。園児と保護者に加え、卒園児らも集まり、夏の夕べのひとときに笑顔の花を咲かせた。
 
 園児の盆踊りで開幕。浴衣や甚平姿で「ピカチュウ音頭」「月夜のぽんちゃらりん」を元気いっぱいに踊った。児童館の建物との間の駐車場を囲み、さまざまな店が並んだ。園が用意したおもちゃ屋のほか、児童館企画のかき氷、トロピカルジュース、各種ゲームコーナーも。スタンプカードやチケットを手に親子や友達同士で店を回った。工藤精肉店(大渡町)は焼きそばやフランクフルト、焼き鳥などを販売。園児手作りのちょうちんや風鈴で彩られた園庭で家族がテーブルを囲み、久しぶりの“飲食あり”の会を楽しんだ。
 
夕涼み会のオープニングを飾った園児の盆踊り

夕涼み会のオープニングを飾った園児の盆踊り

 
暑さに負けず、元気に跳びはねる園児。周りでは保護者が熱心にカメラを向けた

暑さに負けず、元気に跳びはねる園児。周りでは保護者が熱心にカメラを向けた

 
おもちゃに食べ物、飲み物…。さまざまな出店に子どもたちは大喜び

おもちゃに食べ物、飲み物…。さまざまな出店に子どもたちは大喜び

 
園庭では家族で飲食を楽しんだ。夕涼み会の久しぶりの光景

園庭では家族で飲食を楽しんだ。夕涼み会の久しぶりの光景

 
 安斉茉柚ちゃん(5)は「ヨーヨー釣りが楽しかった。唐揚げとソーセージとおにぎりとかき氷を食べたよ。浴衣はお母さんが着せてくれた」とご満悦。4歳男児の母親は「(飲食を伴う)夕涼み会は上の2人のお姉ちゃんの時以来。この子は初めてなので、とても楽しそう。食欲も大人並み」とほほ笑んだ。「子どもたちは外で食べたり飲んだりするのが好き。祭りの夜店のようなわくわく感は今も昔も同じ。親子のすてきな思い出になれば」と楢山園長。
 
 今回、会に協力した上中島児童館は本年度から「健全育成型」に形態を変え、18歳未満の子どもの放課後と土曜日利用が可能に。一日平均20人余りが訪れているという。隣り合う同こども園とは4月から月1回の交流を開始。同館に園児が訪問し、季節の行事などを共に楽しんでいる。この日は児童館側から小中高生10人が協力。園児に喜んでもらおうと、それぞれの持ち場で奮闘した。
 
上中島児童館の中学生らはかき氷などを販売した

上中島児童館の中学生らはかき氷などを販売した

 
児童館のチケット売り場も盛況。園児らが次々に訪れた

児童館のチケット売り場も盛況。園児らが次々に訪れた

 
児童館企画のゲームコーナーも人気。景品のプレゼントも

児童館企画のゲームコーナーも人気。景品のプレゼントも

 
 小山幸亜さん(釜石中1年)は「小さい子とどう関わればいいかとかも分かってくる。自分たちも楽しめている」と笑顔。保育士を目指す村上七望さん(釜石高3年)はこれまでにも市内のこども園のイベントやこども食堂のボランティアとして活動。「みんなにこにこしていて、こっちもうれしくなる。将来は子どもを取り巻く問題を少しでも解決できる保育士に」と意欲を高めた。鈴木館長は「子ども同士、横のつながりだけでなく縦の関わりが増えていくいい機会。今後も一緒にいろいろな活動ができれば」と期待する。
 
 少子化や人口減で子どもの数が減少し続けている同市。市内では小学校の学区ごとに幼児教育・保育施設と小中学校が連携して、地域ぐるみで子どもを育てていこうという動きが出ている。園同士もつながりながら取り組むもの。その一環として、上中島こども園では8月3日から毎週土曜日(午前9時~正午)に、未就学児(0~5歳)と保護者を対象とした遊び場として、園内ホールや園庭を開放する。他園に通う子どもも利用可能。小学生以上の兄、姉は隣接する児童館を利用できる。詳しい利用方法は7月15日号の広報かまいしに掲載。
 
 楢山園長は「当園は三陸道釜石中央インターチェンジ(新町)からも近く、利便のいい場所にある。市内全域の親子にどんどん利用してもらい、より良い環境下での子育てに役立ててもらえれば」と話す。
 
最後は花火の観賞。大きな音と火花に歓声を上げる子どもら

最後は花火の観賞。大きな音と火花に歓声を上げる子どもら

 
写真左:園舎軒下には園児手作りのちょうちんと風鈴が飾られた。同右:会には園児のきょうだいや卒園児らも多く訪れた

写真左:園舎軒下には園児手作りのちょうちんと風鈴が飾られた。同右:会には園児のきょうだいや卒園児らも多く訪れた

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釜石艦砲射撃の惨状、顔知らぬ父への思い 同姓同名の2人が伝える記憶 歌声でつなぐ

2人の佐々木郁子さんが戦争の記憶と平和への願いを伝えた

2人の佐々木郁子さんが戦争の記憶と平和への願いを伝えた

 
 太平洋戦争末期の釜石市を襲った艦砲射撃を題材にした合唱組曲「翳(かげ)った太陽」を歌う会は13日、曲への理解を深めるため「戦争体験者のお話を聞く会」を同市小川町の市働く婦人の家で開いた。語り手を務めたのは市内で暮らす2人の“佐々木郁子”さん。看護師の見習時代に見た艦砲射撃の惨状、顔を知らぬ父への思いをそれぞれ言葉にした。「あのような悲惨さを二度と繰り返さぬよう、平和の意味をかみしめて」。一回り以上、歳の離れた2人が強調したその願いを、合唱メンバーらは心に刻みながら記憶を歌い継ぐ。
 
小学生の手を握って「平和を守って」と語りかける94歳の佐々木郁子さん

小学生の手を握って「平和を守って」と語りかける94歳の佐々木郁子さん

 
 終戦が迫っていた1945年の夏。釜石は、米英連合軍の艦隊から2度の艦砲射撃を受けた。「ビューン!ガーン!ドーン!」。爆撃の始まり、砲弾の炸裂する音、地面の揺れ、避難した防空壕(ごう)や変わり果てた街の様子を生々しく語ったのは甲子町の佐々木郁子さんで、94歳になる。
 
 「戦後79年の歳月が流れた。7月14日と8月9日、釜石艦砲の惨状は…生き地獄でしたよ。その日が来るたびに思い出され、消え去ることはありません」。2度の攻撃で市内に打ち込まれた砲弾は5300発以上。市民ら782人(市調べ)の死亡が判明している。
 
 当時は15歳、看護師の見習として働いていた釜石製鉄所病院には負傷者が次々運ばれてくる。「苦しい、助けて」。他界していった人々、叫ぶような患者の声が今も耳に残る。「どうすることもできず悲しく、つらい日々でした」。絞り出すように胸の内を告白した。
 
 戦後、心は傷つきながらも立ち直り、乗り越え、日本は平和国家になった。「自然が引き起こす天災を防ぐことはできないが、戦争という人災は防ぐことができます。どうか皆さん、力を合わせて永遠の平和国家を守っていくようお願いしたいです」。目を見開き、言葉に力を込めた。
 
顔も知らぬ父の面影をたどった旅について話す80歳の佐々木郁子さん

顔も知らぬ父の面影をたどった旅について話す80歳の佐々木郁子さん

 
 戦争遺児として体験を語った平田・尾崎白浜の佐々木郁子さんは、80歳。1944年9月に満州(中国東北部)に赴いた父正雄さんが故郷に戻ってくることはなかった。45年4月、北安(ペイアン)で病死したらしい。当時は1歳になったばかりの頃。父親という存在自体がよく分からないまま戦後を過ごした。
 
 顔も姿も分からない“父の存在”を感じたのは、2009年に日中友好訪問団として現地を訪れた時。亡くなったとされる病院の敷地に立つと、「白衣を着た父が見ているような思いに駆られた」という。大きくて赤いと言われる満州の太陽を目の当たりにし、「同じ景色を見たんだなと感傷的になった。同時に、同じ土を踏むことができたという喜びもあった」と明かした。
 
 一緒に訪れた青森の男性が発した言葉、姿が忘れられない。「親父―!いま迎えに来たぞ…一緒に帰ろう」。積年の思いが、ほとばしるような叫びに号泣した。
 
 「父は遺骨もない」。同じように家族の元に帰っていない人たちがこの地にいると強く感じた。「日本の平和は大きな犠牲の上にある。戦争は何も生まない。残るのは憎しみ、むなしさ…。生きたくても生きられなかった人たちの思いを大事にしてほしい。平和の意味をかみしめ、命を大切にしなければ」と訴えた。
 
「二度と戦争が起こらないように」。2人の願いは同じ

「二度と戦争が起こらないように」。2人の願いは同じ

 
真剣な表情で話に耳を傾ける「翳った太陽」を歌う会メンバー

真剣な表情で話に耳を傾ける「翳った太陽」を歌う会メンバー

 
 2人の話にじっと耳を傾けた小原湊太さん(甲子小5年)は「平和を守るという思いが伝わってきた」とうなずき、高橋杏奈さん(釜石中2年)は「自分たちが暮らすまちに大変な時期があったと知った。今ある平和の大切さを伝えられるようにしたい」と受け止めた。合唱メンバーは感謝を込めて「青い空は」などを披露。「海」では、戦争の記憶をつなぐ語り手2人も声を重ねた。
 
記憶を受け継ごうと思いを込めて歌う合唱メンバー

記憶を受け継ごうと思いを込めて歌う合唱メンバー

 
 2005年に活動を始めた同グループが歌い継ぐ「翳った太陽」は、艦砲射撃で教え子を亡くした元小学校教師の石橋巌さん(06年他界)が記した絵手紙などを基に創作された全6曲17分の組曲。作曲を手がけた市内のピアノ講師最知節子さん(81)が指導し、市戦没者追悼式での献唱、学校でのコンサートなどを行ってきた。
 
 現在、合唱メンバーは小学5年生~80代の13人。ほとんどが戦争を体験していない世代で、菊地直美会長(61)は「お話し会で体験者のリアルな心に触れるのは大切な学びの機会になっている」と強調する。8回目となった今回も「大変な時代を生き抜いた2人の姿にグッとくる」と感情を揺さぶられた様子。体験者は減ってしまうが、少しでも多くの声を受け取る形は継続させ、「歌詞につづられた思いを感じ、理解し、仲間と気持ちを合わせて歌っていきたい」と前を向く。
 
戦争体験者の2人に寄り添う最知節子さん(左)

戦争体験者の2人に寄り添う最知節子さん(左)

 
 今年は8月2日に行われる原爆死没者追悼式、同9日に開催の市戦没者追悼・平和祈念式での献唱を予定するが、新メンバーの加入などもあって同組曲は歌わない。それでも、戦禍の記憶をつなぐため「声を上げ続けなければ」と最知さん。歌詞の中にある言葉を大切に、思いを一つに歌い上げる日を思い描きながら、練習を続ける。

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水しぶきに笑顔広げる 釜石・根浜海岸で海開き 自然体感!夏の思い出づくり始まる

海開きした根浜海岸海水浴場で初泳ぎを楽しむ子どもたち=7月13日

海開きした根浜海岸海水浴場で初泳ぎを楽しむ子どもたち=7月13日

 
 「海の日」(15日)を含んだ3連休。梅雨明け前にもかかわらず釜石市内では夏日が続き、開設したばかりの根浜海岸海水浴場(鵜住居町)は遊泳やマリンスポーツを楽しむ人でにぎわいを見せた。初日の13日に海開き。地引網体験や海遊びイベントもあり、子どもたちが自然体験を通じ、一足早く夏の思い出を刻んでいた。
 
 海開きの神事を現地で行い、関係者らが海の安全を祈願。子どもたちは海に向かって駆け出し、打ち寄せる波と一緒にジャンプしたり水をかけ合ったりしながら歓声を上げた。砂浜に穴を掘る遊びに夢中な親子、ビーチボールで熱戦を繰り広げる若者グループなど思い思いに楽しむ姿が見られた。
 
思い思いに海遊びを楽しむ人たちでにぎわう根浜海岸

思い思いに海遊びを楽しむ人たちでにぎわう根浜海岸

 
波打ち際も遊び場。水しぶきと歓声を上げる子どもたち

波打ち際も遊び場。水しぶきと歓声を上げる子どもたち

 
ビーチボールに砂遊び…浮いているだけでも海は楽しい

ビーチボールに砂遊び…浮いているだけでも海は楽しい

 
 地引き網体験では子どもから大人まで参加者全員で力を合わせ、海から伸びた2本の綱を引っぱった。「よーいしょ」との掛け声を数回繰り返して網が波打ち際まで来ると、跳びはねる魚がたくさん。トビウオやフグ、サバ、ウミタナゴなどがかかり、子どもたちは興味深そうに観察した。
 
地引き網に挑戦。懸命に網をたぐり寄せる

地引き網に挑戦。懸命に網をたぐり寄せる

 
子どもも大人もみんなで力を合わせて綱を引く

子どもも大人もみんなで力を合わせて綱を引く

 
「おさかなゲット!」。うれしそうな子どもたち

「おさかなゲット!」。うれしそうな子どもたち

 
 釜石・小佐野小4年の越野杏音(あのん)さん、同2年の斗葵(とあ)さん姉弟は、お目当ての地引き網体験で多様な魚との触れ合いを満喫した。自転車競技バイシクルモトクロス(BMX)に打ち込み、週末となればレースや練習の日々という2人にとって、久しぶりの息抜きタイムになった様子。杏音さんは「水は少し冷たいけど、気持ちいい。海は楽しいから、また来たい」とはにかんだ。
 
波と戯れたり泳いだり水遊びを楽しむ海水浴客

波と戯れたり泳いだり水遊びを楽しむ海水浴客

 
レスキューボードの試乗体験も。ライフセーバーが見守る

レスキューボードの試乗体験も。ライフセーバーが見守る

 
 海水浴場は8月18日まで開設。午前10時~午後4時に遊泳できる。期間中は監視員が常駐。釜石ライフセービングクラブの菊池健一代表(52)によると、東日本大震災の津波で失われた砂浜の再生工事が完了し全面開放での海開きが行われた2021年以降、開設期間中に事故は発生していない。
 
 それでも、菊池代表は「ここの海は急に深くなるので、保護者は子どもから目を離さないよう、しっかり見守ってほしい。風の向きによっては浮輪やビーチボールが沖に流されることがあるかもしれないが、無理に取りに行かないこと」と注意を促す。安全に遊泳してもらうための声がけを積極的に行う考えで、「泳いでいて不安になったら、手を振ってアピールしてほしい。ルールを守って思いっきり楽しんでもらえたら」と海岸に目を向けた。

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つなぐ「釜石艦砲」の記憶 市内小学校で紙芝居学習/郷土資料館は戦災企画展開催

 1945(昭和20)年7月14日。釜石市にとって決して忘れることのできない日―。太平洋戦争末期のこの日、同市は米艦隊による本州初の艦砲射撃を受け、多くの尊い命が奪われ、まちは焼け野原と化した。8月9日には米英両艦隊が砲撃。2度の攻撃による死者は782人、全焼家屋は2930戸に及んだ(市調べ)。戦後79年が経過し、体験者も減少していく中、市内ではその記憶を確実に後世につなぎ、非戦の思いを強める取り組みが続く。

釜石小6年生 艦砲射撃を学ぶ 紙芝居、体験者の生の声に「戦争は絶対ダメ」心に刻む

 
颯・2000のメンバーによる艦砲射撃を伝える紙芝居の上演=2日、釜石小

颯・2000のメンバーによる艦砲射撃を伝える紙芝居の上演=2日、釜石小

 
 大渡町の釜石小(五安城正敏校長、児童80人)では2日、6年生(19人)が艦砲射撃の学習を行った。読書サポーター、颯(かぜ)・2000(佐久間良子代表、11人)の4人が来校。体験者が制作した紙芝居の上演、手記の朗読のほか、メンバーが自身の体験を語った。児童らは生まれ育ったまちで実際にあった戦禍を知り、平和な世界の実現を願った。
 
 千田雅恵さん(事務局長)が艦砲射撃について解説。釜石湾に米英の大きな船がやってきて、積んでいる大砲からまちを目がけて5300発以上の砲弾が撃ち込まれたと説明した。「なぜ、釜石は狙われたのか?」。千田さんから問われると、児童から「鉄を多く作っていたから」との声が…。東北唯一の製鉄所があり、日本有数の工業都市だったことで標的にされた。
 
写真上:釜石が受けた艦砲射撃の被害状況などを教える千田雅恵事務局長、同下:話を聞く釜石小6年生

写真上:釜石が受けた艦砲射撃の被害状況などを教える千田雅恵事務局長、同下:話を聞く釜石小6年生

 
 砲弾の大きさを実感してもらおうと、紙の模型でも説明した。最も大きな直径40センチの16インチ砲は重さ約1トン。多くの着弾で、同校がある一帯は一面焼け野原になってしまった。遠くは中妻、小佐野、小川まで被害が及んだ。機銃掃射でも大勢の人が命を落としたという。
 
 釜石艦砲の紙芝居は、元教員で画家としても活躍した鈴木洋一さん(故人)が自身の体験を伝えようと制作したもの。製鉄所がある鈴子町に住んでいた鈴木さんは、逃げ込んだ防空壕(ごう)で次々に撃ち込まれる砲弾の炸裂音、地響きにおののきながら、腹ばいの姿勢で2時間半も耐え続けたという。放心状態でしばらく動けず、外に出ると直径8メートルものすり鉢状の砲弾跡が…。がれきで足の踏み場もなかったと記している。鈴木さんは「戦争は悲劇。おろかで罪悪です。絶対にやってはいけない。皆さんは平和を願う気持ちを持ち続けてください」と紙芝居を締めている。
 
故鈴木洋一さんが制作した紙芝居を読み聞かせる佐野順子さん(写真右)

故鈴木洋一さんが制作した紙芝居を読み聞かせる佐野順子さん(写真右)

 
 同会メンバーの浅沼和子さんは4歳の時に艦砲射撃を経験した。「命に関わることだったので忘れることができない―」。只越町の自宅では爆風でふすまなどが次々に倒れた。防空頭巾をかぶり、母親と近くの防空壕に走った。「死ぬんじゃないかと思いながら必死に母の後を追って逃げた」という。この日は戦争をテーマにした絵本も読み聞かせた。「戦争に勝ち負けはない。憎しみだけが残る」と浅沼さん。
 
写真左:学徒動員の体験手記を朗読する佐々木麻貴子さん、同右:自身の艦砲体験を語る浅沼和子さん

写真左:学徒動員の体験手記を朗読する佐々木麻貴子さん、同右:自身の艦砲体験を語る浅沼和子さん

 
 佐藤風河さんは「戦争は何もうれしいことはない。人の命を奪うことになるのでやめたほうがいい。釜石から発信し、戦争の危なさを世界中に伝えていくことが大事」とメンバーの話を心に刻んだ。
 
 児童らの様子について、「目線をしっかり向けて聞いていたので何かしら響くものはあったと思う」と千田さん。「艦砲射撃は“どこか遠くであったかわいそうなこと”ではなく、ここ釜石であったこと。ガザやウクライナのことも(戦争が)あって当たり前という意識を持たれるのが怖い。戦争をしないためにどうすればいいか、みんなでよく考えてほしい」と願う。
 
颯・2000が持参した艦砲射撃の各種資料も見学。さらに学びを深めた

颯・2000が持参した艦砲射撃の各種資料も見学。さらに学びを深めた

 
 同校が颯・2000のメンバーを招いて釜石艦砲を学ぶのは今年で2年目。五安城(いなぎ)正敏校長は「地域の方に話してもらうことで、より具体的に実感を伴って聞くことができた。地元の地名が出てきたり、いつも朝読書でお世話になっている浅沼さんが話してくれたことで身近さも感じたと思う。ぜひ続けていきたい」と話した。
 

「銃後(じゅうご)もまた戦場」 戦時中の市民の暮らしにスポット当て郷土資料館が企画展

 
市郷土資料館で開催中の企画展「銃後のくらし-釜石はどう生きたか-」

市郷土資料館で開催中の企画展「銃後のくらし-釜石はどう生きたか-」

 
 鈴子町の市郷土資料館(正木浩二館長)では12日から、戦災企画展「銃後のくらし ―釜石はどう生きたか―」が開かれている。戦地で戦う兵士を支え、幅広い活動で古里防衛に力を尽くした市民の生活にスポットを当てた。厳しい環境下でも「国のため」と衣食住の我慢をいとわず、勤労奉仕に汗を流す人々。全てが戦時色に染まった生活の一端を所蔵資料から垣間見ることができる。
 
 企画展示室には関係する64点の資料が並ぶ。当時の暮らしの解説パネル、衣食住、動員に関わる写真や書類など。開戦当初の1941(昭和16)年、鈴子駅から出征兵士を見送る人々の写真は日本の勢いを感じさせる一方、兵士が着物姿の家族と収まる写真は双方の複雑な心境ものぞかせる。戦時体制を色濃く反映するのは、金属献納運動を伝え、供出を促すパンフレット。寺の釣り鐘も集められている様子が掲載されている。
 
市民などから寄せられた戦時下の様子が分かる貴重な資料を公開

市民などから寄せられた戦時下の様子が分かる貴重な資料を公開

 
 戦時中はあらゆる物資が不足した。繊維製品も軍需用が優先され、一般向けの衣類は42(昭17)年から配給制に。各家庭の人数に応じて「衣料切符」が配られたが、実際には欲しいものは手に入りにくかったという。食糧難も深刻。釜石では米に海藻を混ぜて炊く“めのこ飯”が有名だが、県は「山菜野草の食べ方と貯え方」という文書も発行し、飢えをしのぐ手立てとしていた。
 
 戦時中も学校教育は続いたが、こちらも戦時色が強いものに。今回初めて公開された釜石商業高校の43(昭18)年の卒業アルバムは写真はもちろん、校歌や教諭からの送る言葉も戦争を意識した内容で、時代がうかがえる。戦況が悪化し本土決戦が叫ばれるようになると、児童生徒も勤労学徒として工場などに動員された。釜石高等女学校の生徒は小銃発射訓練にも励み、その様子が写真に残されている。企画展では訓練用の木銃も見ることができる。
 
昭和18年の釜石商業高校の卒業アルバムは本展が初公開

昭和18年の釜石商業高校の卒業アルバムは本展が初公開

 
戦力増強のため、市民は各方面に動員された。女性も防空演習や銃の訓練に励んだ

戦力増強のため、市民は各方面に動員された。女性も防空演習や銃の訓練に励んだ

 
雑誌などの出版物も戦時色に染まった

雑誌などの出版物も戦時色に染まった

 
 出征以外の男性は警備、消防、対空監視など釜石防衛の任務に就き、成年女性は大日本婦人会の会員として出征兵士や職場の激励、慰問など幅広い活動で戦時下の守りを支えた。当時の地区組織、隣組は防空演習を盛んに行った。
 
 佐々木寿館長補佐は「子どもから高齢者まで生活全てが戦争に向かっていた時代。今の自由さとは全然違う暮らしをしていたことにも目を向けてもらえれば」と話す。来年は戦後80年という大きな節目を迎える。「釜石艦砲をはじめ戦争体験者のいる(いた)家庭にはまだまだ眠っている資料があると思われる。家の整理などで発見したら、ぜひお寄せいただきたい」と呼び掛ける。
 
 本企画展は9月8日まで開催。毎週火曜日休館。開館時間は午前9時半~午後4時半(最終入館:午後4時)。

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熱さしのぎ“涼”空間へGO! 釜石市、クーリングシェルター開設中 熱中症防止に17施設

クーリングシェルターの掲示が設置された釜石市民ホールTETTO

クーリングシェルターの掲示が設置された釜石市民ホールTETTO

 
 今年の夏も厳しい暑さが予想される中、釜石市は熱中症を防ぐため、冷房を備えた公共施設などを「クーリングシェルター」(指定暑熱避難施設)として活用する取り組みを始めた。4日には市内最大の商業施設「イオンタウン釜石」(港町)を指定し、協定を締結。公共・民間施設を合わせて17カ所を設け、計約300人の受け入れが可能だ。市では「暑さを感じたら涼しい所へ。熱中症リスクの低減につなげたい」と利用を呼びかける。
 
 クーリングシェルターは改正気候変動適応法に基づき、危険な暑さから住民などが避難できる場所として市区町村長によって指定される施設のこと。過去に例のない広域的な暑さを想定しており、「熱中症特別警戒アラート」が追加された。特別警戒アラートは、従来の「熱中症警戒アラート」より一段強い呼びかけで、気温や湿度などから算出する「暑さ指数」が県内全地点で「35」以上になると予想される場合、前日に発表される。
 
 国が特別警戒アラートを発令した際に自治体がクーリングシェルターを開放するため、自治体にシェルターを指定するよう求められている。「適当な冷房設備を有すること」「椅子などの適切な休息が取れる空間が確保できること」などが指定基準となっている。2024年度のシェルターの運用は10月23日まで。
 
クーリングシェルターとして開放される釜石情報交流センター

クーリングシェルターとして開放される釜石情報交流センター

 
 釜石市内のクーリングシェルターのうち、公共施設は16カ所。8地区にある各生活応援センター、市立図書館(小佐野町)、シープラザ釜石(鈴子町)、市民ホールTETTO(大町)、釜石情報交流センター(同)、魚河岸テラス(魚河岸)、根浜シーサイド(鵜住居町)、いのちをつなぐ未来館(同)、鵜の郷交流館(同)で、施設ごとに3~50人の受け入れ数が設けられている。
 
 民間施設ではイオンタウン釜石が開放される。買い物利用の有無にかかわらず休憩所として使ってもらえるよう、通路や空きスペースなどに椅子やソファを増設。100人程度の利用を想定するが、上限は設けない。
 
協定を結んだ小野共市長(左から2人目)、渡邊朋子事業部長(同3人目)ら
 

協定を結んだ小野共市長(左から2人目)、渡邊朋子事業部長(同3人目)ら

 
 7月4日に市役所であった締結式には、イオンタウン東北事業部(仙台市)の渡邊朋子事業部長、釜石店の大沼秀璽モールマネジャーが出席。小野共市長と協定書を取り交わした渡邊事業部長は「週に何度でも気軽に足を運んでほしい」と利用を促した。全国展開するイオンタウン(本社千葉市)では各自治体と連携したシェルターの指定を促進中。東北では釜石が「締結の一発目」だという。小野市長は「猛暑が見込まれており、協力はとてもありがたい」と感謝した。
 
 釜石では、県内全ての「暑さ指数情報提供地点」の指数が「35」に達すると予想された場合に発令される「熱中症特別警戒アラート」だけでなく、いずれかの地点で指数が「33」に達すると予測された場合に発表されている「熱中症警戒アラート」が出た際も防災行政無線で周知する。ただ、アラートが発令されていなくてもシェルターの利用は可能。施設の名称や住所、受け入れ可能人数を市ホームページで公表している。
 
クーリングシェルターを示す掲示物が目印

クーリングシェルターを示す掲示物が目印

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今年もキター!太公望わくわく 鵜住居川、甲子川アユ釣り“七夕”解禁 釣果は?

解禁日を迎え、アユ釣りを楽しむ釣り人(写真左:甲子川、同右:鵜住居川)

解禁日を迎え、アユ釣りを楽しむ釣り人(写真左:甲子川、同右:鵜住居川)

 
 川釣りファン待望の季節が今年もやってきた。釜石市の鵜住居川、甲子川は7日、今季のアユ釣りが解禁された。早朝はあいにくの雨模様となったが、両河川ではこの日を待ちわびた釣り人らが長い竿(さお)を繰り出し、1年ぶりの“引き”を楽しんだ。悪天候ながらまずまずの釣果で、解禁日としては大きめの体長22センチほどのアユも見られた。
 
 鵜住居川では鵜住居川漁業協同組合(川崎公夫代表理事組合長、組合員154人)の組合員や遊漁券購入者が早朝から各ポイントに散らばった。午前4時半解禁。釣り人らは水流などを見極めながら狙った場所でおとりアユを泳がせ、糸の動きを目で追いながらアタリを待った。竿を握る手に確かな手応えを感じると、竿先を上げて2匹をたも網に誘導。アユの縄張り特性を利用した「友釣り」の醍醐味(だいごみ)を味わった。
 
鵜住居川長持橋付近では県内各地から訪れた人たちが竿を出した

鵜住居川長持橋付近では県内各地から訪れた人たちが竿を出した

 
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おとりアユを泳がせて釣る「友釣り」。独特の“引き”が釣り人を魅了する

 
 同河川には5月12日に、同漁協によってアユの稚魚400キロ(約4万4700匹)が放流された。それから約2カ月―。釣り上げたアユは20センチ前後にまで成長。昨年の解禁日より釣果は少なめながら、久しぶりの感触を楽しむ釣り人からは笑みがこぼれた。
 
 栗林町の道々橋上流で竿を構えた同町の千葉啓太さん(32)は「解禁日前夜は眠れないぐらい気持ちが高ぶる」と待ちに待った様子。シーズン中は県内各河川へ飛び回るが、「鵜住居川のアユは引きがいい。特に天然(アユ)は強い。これが何とも言えない」と地元の魅力をアピール。「水面から2匹が姿を現す瞬間は最高の喜び」と話す。例年だと解禁日は午前8時ごろまでに10匹はいくが、「今年はまだ一桁」と、その後の釣果に期待した。
 
解禁日にしては大きめのアユが釣れた。順調に成育しているよう

解禁日にしては大きめのアユが釣れた。順調に成育しているよう

 
地元釜石のベテランは巧みな竿さばきで多くのアユを釣り上げた

地元釜石のベテランは巧みな竿さばきで多くのアユを釣り上げた

 
 一関市の“アユ釣り歴30年”という男性(65)は、長持橋下流で午前9時ごろまでに17~18匹を釣り上げた。「雨でいくらか水温が下がり、(野アユの)追いが悪いようだ」と言いつつ、「型はいい。解禁日でこの大きさは珍しいのでは」とヒットを重ねた。同河川の解禁に足を運ぶのは昨年に続き2回目。「高速(三陸沿岸道路)を降りてすぐという近さがいい。新しい道路ができるまでは来たことがなかった」と、沿岸に足を延ばしたきっかけを明かした。釣った魚は冷凍し、「お盆に息子たちが帰省した時にバーベキューをしながらみんなで食べる」と心待ちにした。
 
 漁協の巡回監視員は解禁と同時にパトロール。組合員証、遊漁券不保持などの違反、危険行為がないかなどを見て回った。梅雨入り後、まとまった雨が降らず、川の水量不足を懸念していた組合員ら。川崎組合長は「解禁日前にもう少し降ってくれていれば」と苦笑い。この日は沿岸南部5河川の解禁が重なったが、「県内陸部からの釣り客の姿も見られ、思ったほどの減少ではない」と一安心。「天然遡上も8月には大きくなる。適度な雨で新しいコケ(アユの餌)も生えてくれれば。9月初旬まで長く楽しめるといい」と期待する。
 
鵜住居川漁協の監視員が巡回。釣り人から話を聞いて情報も集める

鵜住居川漁協の監視員が巡回。釣り人から話を聞いて情報も集める

 
 甲子川でも早朝から釣り人が繰り出した。こちらも朝方は雨に見舞われたが、日中は天候が回復。日も差した。毎年、足を運ぶ地元の愛好者によると、解禁初日としては例年より人出は少なめ。五の橋下流域から甲子町大松まで広範囲に釣り人が散らばった。
 
 河川漁協のない甲子川では入漁料を徴収しないため、春先の稚アユの放流は、資源保全に取り組む甲子川鮎釣協力会(安久津吉延会長)に寄せられる協力金や市、流域の企業からの助成金で行われている。今年は大雨による増水の影響で、当初予定より3週間ほど遅い6月7日に250キロ(約3万匹)を放流した。
 
甲子川の県立釜石病院裏エリア(甲子町松倉)は毎年人気のスポット

甲子川の県立釜石病院裏エリア(甲子町松倉)は毎年人気のスポット

 
午前10時ごろには雨も上がり、日差しが出る時間帯も

午前10時ごろには雨も上がり、日差しが出る時間帯も

 
 県立釜石病院裏で釣り糸を垂れた甲子町の男性(49)は午前10時ごろまでに8~10匹を釣り上げた。サイズは大きいもので20センチほどと例年並み。「コケが良ければ成長もいいだろうが、あまり良くないようなので…。数も昨年の解禁日よりは少なめ」とちょっと残念そう。それでも、水質の良い河川で育ったアユ特有の“スイカの香り”は顕在で、「おいしそう」と頬を緩めた。
 
 同協力会の安久津会長は「解禁前に見て回った時は魚影は見えていたので、今年(の解禁)はいいかなと思ったが…。今朝の雨が影響したのかな。早めに切り上げた人もいた。今後に期待です」とシーズン本番を楽しみにした。
 
甲子川も水量は少なめ。濁らない程度のまとまった雨がほしいところ

甲子川も水量は少なめ。濁らない程度のまとまった雨がほしいところ

 
こちらの方は鵜住居川から甲子川へ“はしご”。到着早々、立て続けに2匹を釣り上げた

こちらの方は鵜住居川から甲子川へ“はしご”。到着早々、立て続けに2匹を釣り上げた

 
 甲子地域会議と同協力会は味の良さで定評のある甲子川のアユを多くの人に味わってもらおうと、道の駅釜石仙人峠での2年ぶりとなるお振る舞いイベントを計画中。甲子川で釣ったアユを寄付してくれる方を募集しているという。(広報かまいし7月1日号掲載)

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夏待ちきれず水しぶき 釜石でプール開き 歓声響く屋外プール「冷たいけど、いいね」

屋外プールの水の感触を楽しむ子どもたち

屋外プールの水の感触を楽しむ子どもたち

 
 釜石市大平町の市営プールで6日、屋外プールの利用が始まった。今季利用できるのは50メートルプールのみ。25メートル、子ども用プールは老朽化で閉鎖状態が続く。それでも水泳に親しむ子どもたちは早速水しぶきを上げて初泳ぎ。梅雨時期のじっとりした暑さの中だったこともあり、「水、冷たーい」「キラキラして、きれいだね」と歓声を上げた。
 
 この日はプール開きに合わせて安全祈願の神事が行われ、指定管理者の協立管理工業(小笠原拓生社長)や釜石水泳協会(山崎達会長)の関係者ら約20人がシーズン中の無事故を祈った。市スポーツ推進課の佐々木利光課長は「老朽化による不具合で使用できないプールがあり不便をかけるが、安全安心のもと、快適に使ってほしい」とあいさつ。協立管理工業の藤澤正明総務主任は「施設の内外を掃除して清潔に努めている。救助法など訓練も重ねて対応できるようにしている。ぜひ利用を」と呼びかける。
 
屋外プールの利用開始に合わせ行われた安全祈願の神事

屋外プールの利用開始に合わせ行われた安全祈願の神事

 
 初泳ぎを楽しんだのは、水泳教室に通う子ども約15人。平泳ぎやクロールなど模範泳法を披露した。この時のプールサイドの気温は33度、水温25.4度で、絶好のプール日和。藤原莉那さん(10)は「水は冷たいけど、気持ちいい。大会に向けて練習を頑張りたい」と意欲を高めた。
 
 特別イベントとして、アーティスティックスイミングの体験会も開かれた。小学生から高校生まで30人ほどが参加。水上に顔を出したまま平泳ぎをしたり、手を上げてポーズを決めるなど、動作を何度も繰り返した。音楽や仲間と呼吸を合わせて演技する難しさや楽しさを体感。「難しそう…できた!」と満足げな声が飛び交っていた。
 
初泳ぎを楽しむ子どもたちの笑顔が広がった

初泳ぎを楽しむ子どもたちの笑顔が広がった

 
アーティスティックスイミングの楽しさも味わった

アーティスティックスイミングの楽しさも味わった

 
 市営プールには通年で利用できる屋内25メートル、子ども用プールもある。協立管理工業によると、昨年度の利用者数は約3万3000人(前年度比約6400人増)で、コロナ禍を経て徐々に回復している。今季も基本的に利用人数、時間の制限は行わない。気兼ねない利用を促しつつ、「土日など混雑が予想される場合もあるので、様子を見て判断してほしい。みんなで楽しい利用を」と理解を求める。
 
開放された屋外50メートルプール。ルールを守って安全な利用を

開放された屋外50メートルプール。ルールを守って安全な利用を

 
 営業は火曜日から金曜日が正午~午後8時、土・日・祝日は午前10時半~午後6時で、月曜日が休館。市内小中学校の夏休み期間(7月23日~8月20日)は無休で営業し、全日午前10時半に開場する。期間中は未就学児の利用は無料。学校にプールがない市内の中学生などは生徒手帳を提示すれば無料となる。屋外プールは9月1日まで開放する予定だ。

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華麗な変身! 国蝶「オオムラサキ」の羽化 愛好家が撮影成功 釜石の保護活動 成果着々と

オオムラサキの雄がサナギから羽化する様子=かまいし環境ネットワーク菊地利明さん撮影

オオムラサキの雄がサナギから羽化する様子=かまいし環境ネットワーク菊地利明さん撮影

 
 羽の美しい模様と鮮やかな色彩、力強い羽ばたきで愛好家にも人気のチョウ「オオムラサキ」。国蝶(こくちょう、日本昆虫学会選定)で、環境省の準絶滅危惧種に指定されているこのチョウは6~7月が羽化の時期。サナギから華麗な変身を遂げる雄の姿が6月下旬、釜石市内で撮影された。一連の過程の写真撮影に成功したのは、オオムラサキの保護活動に長年取り組んできた、かまいし環境ネットワーク(加藤直子代表)会員の菊地利明さん(59)。自然の神秘の一部始終を紹介する。
 
 オオムラサキの羽化が見られたのは同市甲子町の雑木林。同ネットワークが2000年代初頭、オオムラサキ繁殖のために植えたエゾエノキの葉陰だ。エノキ類の葉は幼虫の餌になっている。菊地さんは毎年、同所で観察を継続。今年も休日などを利用し足を運んでいたところ、6月22日午後、薄緑色から黒っぽく変色した羽化間近のサナギを発見。撮影を開始した。
 
 午後1時半ごろ、亀裂が入った殻から成虫が出始めた。頭部と背中から姿を現し、触角、脚も出てきた。3分ほどで体全体が殻から抜けると、ゆっくりと体勢を上向きに変え、羽を伸ばし始めた。この後、胴体と羽が乾いて飛べるようになるまで、じっとしていた。午後5時前、葉陰から葉表に移動。何度か羽を開閉しながら飛び立つ練習をした後、午後5時40分ごろ、勢いよく夕空に向かって羽ばたいた。羽化開始から4時間余り。オオムラサキの貴重な生態の一部が菊地さんによってカメラに収められた。(以下、羽化写真=菊地さん撮影)
 
①サナギの殻を割って頭部と背中から出始める ②脚や触角、腹部も出てくる

①サナギの殻を割って頭部と背中から出始める ②脚や触角、腹部も出てくる

 
③羽の斑紋、裏面の黄色も見える ④頭部を上向きに体勢を変える

③羽の斑紋、裏面の黄色も見える ④頭部を上向きに体勢を変える

 
⑤体を安定させ、羽を伸ばしていく ⑥羽がいっぱいに伸びた状態

⑤体を安定させ、羽を伸ばしていく ⑥羽がいっぱいに伸びた状態

 
⑦、⑧葉の表に移動。羽を開閉したりブルブルと震わせたりしながら飛行準備

⑦、⑧葉の表に移動。羽を開閉したりブルブルと震わせたりしながら飛行準備

 
美しい羽を広げ、間もなく飛び立つオオムラサキの雄

美しい羽を広げ、間もなく飛び立つオオムラサキの雄

 
 菊地さんがこの場所で羽化の瞬間を目にするのは初めて。これまで、サナギと羽化後の殻は確認していたが、「今回はタイミングが合って撮影できた」。釜石では例年6月末に羽化を確認していたが、「今年は関東並みの早さ。地球温暖化の影響かな」と菊地さん。オオムラサキは雄が先に羽化し、その後、雌が羽化する。観察に同行した6月30日はエゾエノキ周辺を飛び回る雄の姿が見られた。「雄は体の成熟に時間がかかるため一足早く羽化する。雌は羽化直後に交尾が可能。雄は雌の羽化を待って近くにいる可能性がある」という。
 
オオムラサキの羽化を撮影した菊地利明さん

オオムラサキの羽化を撮影した菊地利明さん

 
エゾエノキ、エノキの周りを飛び回るオオムラサキの雄。下から見ると光の加減で羽の表の模様が透けて見える

エゾエノキ、エノキの周りを飛び回るオオムラサキの雄。下から見ると光の加減で羽の表の模様が透けて見える

 
 同ネットワークが同所に植えたエノキ、エゾエノキは計4本。成長が早いこれらの木は約20年で大きく成長。周囲の環境と相まってオオムラサキの繁殖に適した木になっているとみられる。幼虫は枝を動き回って葉を食べるが、サナギは天敵の鳥に見つかりにくい、比較的低い枝の葉陰に多く形成される。このため、梅雨時期に水分で重くなった枝が垂れ下がってくると、シカがサナギごと葉を食べてしまうことがあった。菊地さんは今年、シカ対策として枝を支える支柱を設置。大雨が少なく、食害も防げたことで、目視で確認できる範囲に8匹のサナギができた。
 
写真右:雨で枝が垂れ下がらないように支柱を設置。シカの食害対策

写真右:雨で枝が垂れ下がらないように支柱を設置。シカの食害対策

 
 オオムラサキは北海道から九州まで広く分布するが、生息数は減少している。高度経済成長期の森林伐採や木材供給のための針葉樹林化など山の環境変化で、幼虫に必要なエノキ類、成虫が樹液を吸うためのクヌギ、コナラなどの樹木が減ってしまったことが影響しているとみられる。
 
 菊地さんが釜石市内で他にオオムラサキを確認できているのは、甲子町の小学校裏山、日向ダムなど。同ネットワークは県や市の協力で、同ダム周辺にもエゾエノキの植樹を続けていて、昨年5月の植樹時には、以前植えた木に幼虫の姿が見られた。今回、菊地さんが撮影した羽化写真を目にした加藤代表は「感激です。市民の皆さんにも見てもらえる機会を設けたい。子どもたちの環境学習にも役立てられたら」と期待。植樹の成果が表れていることも喜び、「引き続き生息環境を守っていきたい」と話した。
 
人の目の高さの枝で複数のサナギを確認。サナギは葉の裏側に形成される(写真左下)

人の目の高さの枝で複数のサナギを確認。サナギは葉の裏側に形成される(写真左下)

 
 オオムラサキはタテハチョウ科に属する。羽を広げると10センチ前後になり、雌のほうが一回り大きい。羽の表面は雄が青紫色、雌は黒褐色で、白や黄色の斑紋がある。日本では南北で大きさや羽の裏面の色が異なる。北に生息するほうが小型で、裏面の羽色は南にいくほど白っぽく、北にいくほど黄色味が強くなる。菊地さんは「地域によって模様にも若干の違いがあり興味深い。こんなにきれいなチョウが釜石にもいることを知ってほしい。一緒に保護活動に取り組む仲間も増えてくれたら」と願う。

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安全、安心な地域づくりに尽力 警察業務への協力で釜石署が3団体8個人に感謝状贈呈

警察業務への協力で感謝状を贈られた釜石・大槌地区の団体や個人=1日、釜石警察署

警察業務への協力で感謝状を贈られた釜石・大槌地区の団体や個人=1日、釜石警察署

 
 犯罪や交通事故の防止活動などで警察業務に協力してきた団体や個人への感謝状贈呈式が1日、釜石市中妻町の釜石警察署(三浦正人署長)で行われた。長年の貢献で2人に県警察本部長感謝状、3団体6人に釜石警察署長感謝状が贈られた。
 
 警察業務協力者への感謝状贈呈は、1954(昭和29)年7月1日に現行の警察制度が施行され、都道府県警察が発足したことにちなみ、毎年この日に行われている。釜石署では今回、登下校時の児童の見守り、少年の非行防止、交通安全意識の啓発、防犯パトロール、特殊詐欺被害防止の広報活動などで功労のあった団体と個人が対象となり、三浦署長が一人一人に感謝状を手渡して気持ちを伝えた。
 
県警本部長名、釜石署長名の感謝状が贈られた

県警本部長名、釜石署長名の感謝状が贈られた

 
三浦正人署長(右)が対象者に賞状を手渡し、感謝の気持ちを表した

三浦正人署長(右)が対象者に賞状を手渡し、感謝の気持ちを表した

 
 三浦署長は同署管内の治安情勢についても説明。刑法犯認知件数は2015年以降、減少が続いていたが、21年から増加に転じ、中でも詐欺被害が増えていることを指摘。本年度に入り、SNSの利用で多額の現金をだまし取られる被害も発生していることを伝えた。昨年の交通事故件数は前年より減少したが、今年に入り増加傾向に。2月には大槌町内で死亡事故もあり、「予断を許さない状況」とし、「地域住民の安全、安心のため力添えを」と引き続きの協力を願った。
 
 県警本部長感謝状を受けた佐々木喜一さん(83)は町内会長を務める小佐野町で、20年近く下校時の児童の見守り、月1回の町内防犯パトロールなどを継続。小佐野交番の開所時には同交番連絡協議会の立ち上げにも尽力した。「今のところ大きな犯罪はないが、町内を走る国道は過去に死亡事故が多発していた。幸い今年はゼロだが、高齢者が信号のない場所を横断するケースがあり心配。さらに注意喚起をしていきたい」と気を引き締めた。
 
「県警察本部長感謝状」を受けた佐々木喜一さん

「県警察本部長感謝状」を受けた佐々木喜一さん

 
 釜石署長感謝状を受けた柴田渥さん(77)は松原町内会長で、地域の防犯意識向上、犯罪予防活動に尽力する。東日本大震災の津波被害を受けた同地区は、世帯数が3分の1に減少。独居高齢者が増え、本人や周囲が気付かぬまま犯罪に巻き込まれる危険性もあることから、「詐欺が疑われる不審電話、しつこいセールスなど電話対応に関する注意喚起は一層重要。100歳体操など定期的に集まる機会は情報交換の場にもなっているので、防犯への心構えも呼び掛けていきたい」と話した。
 
防犯、交通安全など地域を守る活動を長年続けてきた皆さん。住民の安全安心に大きく貢献

防犯、交通安全など地域を守る活動を長年続けてきた皆さん。住民の安全安心に大きく貢献

 
 感謝状を受けた団体、個人は次の通り。
【県警察本部長感謝状】 祝田稔平(大槌町上町)、佐々木喜一(釜石市小佐野町)
【釜石警察署長感謝状】 ▽団体:釜石市立甲子小学校、釜石遊技業組合、中妻地区見守り隊 ▽個人:猪又春一(平田)、佐々木静男(平田町)、佐々木義晴(小佐野町)、柴田渥(松原町)、武石勝雄(野田町)、佐々木正雪(甲子町)※いずれも釜石市

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三陸の海に人知れず生息!? 欧州原産カキ 岩手県水産技術センター(釜石)が研究 活用模索「起死回生の一手に」

岩手県水産技術センターで育てられているヨーロッパヒラガキ

岩手県水産技術センターで育てられているヨーロッパヒラガキ

 
 70年以上前に養殖試験のため日本に持ち込まれ、岩手県沿岸でも試験的に養殖されていた欧州原産の食用カキ。東日本大震災の津波で流失し消滅したと考えられていたが、県水産技術センター(釜石市)などの調査研究で“生息”していることが確認された。その名は「ヨーロッパヒラガキ」。人知れず生き残り、繁殖・定着した生存力は、不漁が続く三陸海域の有用な資源になりうる可能性を秘める。同センターでは既に種苗の生産に成功。その規模を拡大させながらさらに研究を進め、養殖試験につなげる考えだ。
 
 センターによると、ヨーロッパヒラガキは丸く平たい見た目が特徴で、殻の幅は10センチほど。欧州では古くから生食用として親しまれてきた高級食材で、独特の渋みがあり、シャンパンや白ワインに合うとされる。近年は病気の流行などで生産量が激減しているという。
 
ヨーロッパヒラガキとマガキを比較。3つ並んだものは右側の2つがヒラガキ

ヨーロッパヒラガキとマガキを比較。3つ並んだものは右側の2つがヒラガキ

 
調査研究に取り組んだ寺本沙也加さん(右)と小林俊将さん

調査研究に取り組んだ寺本沙也加さん(右)と小林俊将さん

 
 そんな高級食用カキの調査研究に取り組んだのは、同センター増養殖部専門研究員の寺本沙也加さん(29)と、部長の小林俊将さん(57)。成果は今年5月に日本貝類学会の国際学術誌に掲載された。
 
 研究のきっかけは昨年4月、寺本さんが山田湾でカキ養殖を行う漁業者のSNS(交流サイト)で「種が不明のカキ類」の写真を見つけたことだった。その漁業者から「正体を調べてほしい」との要望もあり、調査を開始。譲り受けた26個体から10個体を選定して貝殻の形態やDNA解析を行った結果、全てがヨーロッパヒラガキと判明した。
 
 ヒラガキは1952年に東北大がオランダから国内に持ち込み、北海道や、青森、岩手、宮城の3県で養殖試験を進めた。岩手県内では91~95年にかけて山田湾で種苗生産と養殖試験を行っていたが、94年の北海道東方沖地震の津波で母貝や種苗が流失して全ての試験を終了。最後まで養殖していた宮城沖でも2011年の震災の津波で流され、消滅したと考えられていた。
 
ヨーロッパヒラガキを手にする小林さん。センターで種苗生産試験を続ける

ヨーロッパヒラガキを手にする小林さん。センターで種苗生産試験を続ける

 
 今回の調査でヒラガキの存在を確認したこともあり、県内24の漁業協同組合を対象にアンケートを実施。その結果、宮古市から陸前高田市までの7湾で生息していることを確認した。養殖のホタテなどに付着した形でヒラガキを発見しているとのこと。小林さんは「あちこちに存在していると思われ、驚いた。定着の過程など実態は不明だが、生息できる環境があったということだろう。さらなる研究が必要」と目を光らせる。
 
 過去に人為的な移入が確認されていない海域でも生息していることが分かったが、今回、釜石地域の漁業者からの報告はなかったという。ただ、本県沿岸各地への分布拡大が進んでいると考えられることや、大槌湾でも見つかっていることから、小林さんは「近い海域ですから…」と、希望を残してくれた。
 
仕事でもあり趣味でもある貝類をテーマにした研究を楽しんだという寺本さん

仕事でもあり趣味でもある貝類をテーマにした研究を楽しんだという寺本さん

 
ヨーロッパヒラガキと、研究成果として発表された論文

ヨーロッパヒラガキと、研究成果として発表された論文

 
 国外から意図的に移入されたカキ類が天然海域に定着した事例としては国内初になると考えられる―。そうした成果をまとめた寺本さんは、貝類の分類が専門。「歴史をひもとく研究であり、地元の貝をネタにした研究で楽しかった」と、うれしそうに話す。貝殻のコレクターでもあると自認するが、「食べるのは苦手」というところが面白い。
 
 世界的に水産有用種として知られ、その利用が注目されると予想する寺本さん。分布把握や周辺海域でのモニタリングを続けていく構えで、「落ち込んでいる三陸の水産業にとって起死回生の一手を打てる産品になればいい」と期待する。
 
 同センターでは、新たな養殖対象種として利用の可能性を探るため、昨年度から種苗生産試験を続ける。今年の秋以降、漁業者と連携して養殖試験にも取り組みたい考え。今のところ生態系への影響は確認されていないとするが、状況を注視していくという。