
犠牲者の名前が刻まれた釜石祈りのパークの芳名板。訪れた人たちが静かに手を合わせた
釜石市内で1064人もの死者(関連死を含め)・行方不明者を出した東日本大震災から、11日で15年となった。市内各所で朝から、残され人たちが大切な人を思い、鎮魂の祈りをささげた。時は過ぎても癒えない悲しみを抱えながら、それぞれが静かに震災と向き合う一方、「あの日」を記憶していない世代も増えていく。“直接”の記憶を持たなくとも、家族や地域の体験に耳を傾け、思いを受け止めながら語り継ごうとしている。「この日」は、かけがえのない命を見つめ、記憶と教訓を未来へ伝える日でもある。
記憶、未来に向き合う 祈りのパーク

祈りのパークで亡き人を思い名前に手を伸ばす女性
1003人の芳名が掲げられる鵜住居町の追悼施設「釜石祈りのパーク」。訪れた人たちは献花台に白菊を手向け、手を合わせた。芳名板の名前を静かになぞり、顔を近づけ声をかける姿も。「会いに来たよ」と話しかけ、間渕英子さん(64)は目を潤ませた。発災の1週間前に実父の葬儀のため帰省。「またすぐ来るから」と、東京に戻った翌日が「あの日」になった。優しかった実母の小笠原ツエさん(当時76)に、「これから」と思っていた孝行ができなくなってしまったのが心残り。町内にあった実家は津波で流され、亡き人を感じられるこの場所に思いを残す。「元気なうちは会いに来るよ」

午後2時46分、犠牲者を悼み手を合わせた
午後2時46分、祈りのパークで約160人が手を合わせた。続く市主催の追悼式では、高校生が「未来へのメッセージ」と題し、震災の教訓を未来につなげる誓いの言葉を述べた。遺族代表のあいさつの代わりとして今回初めて取り入れた試みで、思いを語ったのは釜石高3年の山陰皇騎さん(17)。震災時は2歳で、ほぼ記憶がないというが、津波で父の剛さん(当時35)を亡くした。「3月11日は私にとって特別な日。一生記憶をつないでいきたい」
剛さんは大槌町の職場から自宅に戻る際、津波にのまれ、約8か月後に見つかった。母の瑠里子さん(48)の話から想像することしかなかった父のこと。「一緒に生活できていたら、何をして、どんな話をしたのか」。悲しみ、悔しさ、好奇心…不思議な感情を持ちながら、山陰さんはこの春、進学のため古里を離れる。「ずっと私たちを見守っていてください」

父への思いを胸に「未来へのメッセージ」を発表する山陰皇騎さん
高校生活で一番力を入れたのは防災活動。震災伝承に取り組む生徒有志の団体「夢団」に参加し、人と出合い、学びを深める中で「語り継ぐ」大切さに気づいた。「記憶ない世代」が増えていると改めて感じ、「記憶を持つ最後の世代として、しっかりと語り継ぎ、教訓を風化させないことが使命だ」とメッセージを発信。たとえ自分に記憶がなくとも、誰かに聞いたことを話すだけでも意味があることなのだ。「皆さんにも語り継いでほしい。ゆっくり自分のペースでいいから。語り継いで、忘れないでほしい。いつまでも」

追悼式が終わり、笑顔を交わす山陰さん(右)、母の瑠里子さん(左)、弟の宗真さん
落ち着いた気持ちで手を合わせてほしい―。前日の10日、釜石東中(髙橋晃一校長)の3年生23人が芳名板を磨いた。震災のことを語り継ぐ「いつ海集会」での取り組み。発災の年に生まれた小笠原虹南さん(15)は「地域で暮らす自分たちがきれいにすることで、感謝の気持ちを伝えられたら。地震や津波はいつ起こるか分からないから、油断せずに避難のこと、避難した後のことを考えて生きていきたい」と受け止めた。

10日に祈りのパークで清掃活動をする釜石東中の3年生

希望ある未来を思い描きながら歌声を響かせた生徒たち
校舎へと続く大階段では全校生徒86人で集会の名につながる歌「いつかこの海をこえて」を合唱。被災を経験した当時の東中生の思いが散りばめられた歌詞に、届けたい願いを乗せた。「これからも地域と共に」「夢を抱いて生きていこう」「自分たちの命を誰かのために使っていこう」
感情、まちに漂う

震災で亡くなった夫が眠る墓に話しかける岩舘マユ子さん
11日、市内の寺院には朝から遺族らが墓参りに訪れた。大只越町の石応禅寺で、岩舘マユ子さん(76)は、夫の信幸さん(当時65)の墓に手を合わせた。15年前のあの日、津波に巻き込まれたとみられる信幸さんは、数日後に浜町の自宅そばで見つかった。岩舘さんは、仕事で市内の内陸部にいた。「きっと大丈夫」と信じる気持ちと、「やっぱり…」との諦めが半々だったと当時の心境を思い起こすも、「実はね、記憶が飛んでいるの」と明かした。
信幸さんは“昔かたぎの職人”だったというが、家業のかまぼこ屋を震災の数年前にたたんだ。岩舘さんは定年で退職を控えていたが、「気落ちしていられない。頑張らないと」と働き続けた。市中心部の災害公営住宅に入居し生活は落ち着いたが、病気の影響で2年前に退職。ちょうどその頃、知人にすすめられグラウンドゴルフを始めた。

かつて自宅があった辺りを見つめて「寂しいね」とつぶやく
この日の午後は、グラウンドゴルフの日。岩舘さんは墓に語りかけた。「私より年上の人たちが元気なの。年寄りは元気でないとね。もう15も年をとったけど、もう少しここにいるよ。健康でいられるよう見ていて」

殉職消防団員の顕彰碑に遺族や消防団関係者らが献花
鈴子町の鈴子広場にある殉職消防団員顕彰碑前では、市と市消防団主催の献花式が行われた。震災で職務遂行中に命を落とした仲間8人の名に向かい、菊池録郎団長(74)は「強い使命感で最後まで職責を全うした団員が守ろうとした人々と暮らしを守り続ける責務がある。志を胸に刻み、防災力向上に努める」と力を込めた。
震災当時、水門を閉めながら避難を呼びかけた夫の政信さん(当時28)を亡くした矢巾町の浦島都子さん(45)は、長男で盛岡中央高単位制2年の央和さん(17)と参列。「15年たっても気持ちは変わらない。優しい人だった」と目を赤くし、言葉を絞り出した。「まだ見つかっていない…整理がつかない」

「わすれない」と文字が刻まれた納骨堂で身元不明の遺骨を供養
身元が分からない犠牲者の遺骨を安置する大平町の大平墓地公園内の納骨堂前で、釜石仏教会(大萱生修明会長、17カ寺)による法要が営まれた。現在、全身骨5柱、部分骨3柱を安置。僧侶5人が読経する中、参列した市関係者や市民らが焼香した。「いつか家族の元へ戻れるように」
導師を務めた仙寿院(大只越町)の芝﨑恵応住職は「震災を知らない子が多くなった。経験した者が伝えなければ、将来に大きな不安が残る」と風化への危機感を示し、強く求めた。「教訓を伝えよ」

15年前に届けたかった「あの日のコーヒー」を振る舞う岩鼻伸介さん
大平町の釜石大観音仲見世通りにオープンした完全予約制のカフェ「ハピスコーヒーラボラトリー」で、店主の岩鼻伸介さん(48)が来店した人たちに「あの日のコーヒー」を無料で振る舞った。15年前、寒かった「あの日」に被災した人たちに飲んでほしかった一杯。苦みを抑えた、すっきりとした味わいに願いを込める。「あたたかい飲み物でほっとする時間を」

来店した客と言葉を交わす(左奥から)竹内佳代さん、岩鼻さん
カフェ開店の目的の一つが、ライフワークとなる能登半島地震の復興応援活動。現地に行けない時も、石川県七尾市の集会所に開設した拠点とつないでオンライン交流を続ける計画だ。この日は、活動の中で知り合ったカウンセラーの竹内佳代さん(40)が石川から駆け付け、お手伝い。珠洲(すず)焼職人を目指しており、ハピスラボで使用する珠洲焼のカップは竹内さんが作った。それぞれ新たな挑戦をスタートさせた2人は声をそろえた。「釜石と能登の架け橋に」



















































































