ラグビーワールドカップ2019日本大会の開幕がいよいよ目前に迫りました。
釜石で行われる記念すべき最初の試合は、フィジー対ウルグアイ。 このうち、フィジーは日本でもおなじみのチームです。過去ワールドカップで8強進出は2回。トップリーグでプレーする選手も日本代表入りしているフィジー出身選手も多く、先日は釜石鵜住居で日本代表と対戦もしました。
ではウルグアイとは? 南米にある、地球の反対側にある、サッカーが人気で、主な産業は牧畜業……そんな情報は見つかるかもしれないけれど、どんな雰囲気なのか、ウルグアイのラグビーとはどんな感じなのか、そんな情報はあまりないだろう。
実は、日本代表がウルグアイへ遠征したことは一度だけある。そのとき、日本からウルグアイまで取材に行った記者がひとりだけいた。それが、スクラム釜石でも活動しているスポーツライターの大友信彦記者だ。今回は、大友記者が、4年前にウルグアイが初来日した際にWEBマガジンRUGBYJapan365に寄稿した記事を、縁とらんすに寄稿します。
まもなくワールドカップ開幕。釜石にやってくる(すでに岩手県入りしている)ウルグアイについて、どんな国からやってくる、どんなチームなのか、以下の記事を参考にしていただければ幸いです。
提供:大友信彦&RUGBYJapan365
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日本代表がウルグアイと対戦したのは過去1度だけある。2005年の日本代表南米遠征で、ウルグアイの首都モンテビデオで、日本代表はロス・テロスことウルグアイ代表と初対戦した(注:2015年8月にウルグアイ代表は来日し2試合を行い、日本が2勝0敗)。
2005年ウルグアイ戦の日本代表、試合前の集合写真。前列左端が19歳の五郎丸選手、この時点ではまだノンキャップ。
実は、記者(大友信彦)は、この試合を現地で取材した。 現地を訪れたメディアは一人だけだった。……なんて書くと自慢しているみたいだが、行く方が珍しい。それは、現地へ着くまでの行程を知れば分かると思う。
日本からは、アメリカン航空で米国のダラス、マイアミで乗り継ぎ、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。そこからは大河ラプラタをフェリーで渡り、さらにバスに乗り継ぎ、ウルグアイの首都モンテビデオにたどり着いた。合計50時間ほどだった。
西回りでヨーロッパの、フランクフルトやパリを経由する手も、ドバイやイスタンブールを経由する手もあっただろうし、ブエノスアイレスからフェリーなんて乗らずにモンテビデオまで飛べばもっと早く着いたはずだが、どのみち「50時間」の前では誤差みたいなものだ。 まあ、日本からは最も遠い国のひとつである。
そもそもウルグアイとはどんな国なのか、どこにあるのか、知らない人も多いだろう。 ウルグアイは南米大陸、ブラジルとアルゼンチンという2大国に挟まれた位置にある。 日本から見れば、ほぼ地球の真裏にあたる。時差も季節もすべて正反対だ。
ウルグアイには日系人、在留日本人が少なくなかった。モンテビデオの試合にかけつけた応援団。
主要産業は農業、牧畜。人口は約350万人という小国だが、サッカーの世界では1930年の第1回FIFAワールドカップの開催国であり初代優勝チームだ。ラグビーワールドカップには1999年と2003年大会に出場し、1999年にはスペインを、2003年はジョージア(当時の日本国内での表記はグルジア)を破り、すでに日本を上回る2勝をあげている(2015年8月時点)。
ラグビーにおける日本とウルグアイの初めてのテストマッチは2005年4月17日、モンテビデオで行われた。試合は、前半は日本が、18歳11ヶ月という史上最年少キャップ記録(のちに藤田慶和が更新)したWTBクリスチャン・ロアマヌのトライなどで15-5とリードしたが、後半はウルグアイがスクラムとブレイクダウンの圧力で徐々にペースを掴み、3トライを奪って24-18で逆転勝ちをおさめた。
先頭で入場するのは、日本代表の箕内主将(当時)
この試合では18歳11ヶ月のロアマヌのほか、早大2年、19歳になったばかりの五郎丸歩も途中出場で初キャップ。早大を卒業したばかりのSH後藤翔太も途中出場で初キャップを獲得した。また、フランスでの事前合宿で膝を負傷した池田渉に替わって緊急招集されたSH村田亙が、史上最年長となる37歳でのキャップを獲得したのもこのウルグアイ戦だった。
ウルグアイのラグビーといえば、隣国アルゼンチンと似ているのかな、と想像する人が多いだろう。それは概ね正しいと言っていいだろう。大雑把に言えば、スクラムが強く、コンタクトに身体を張り、キックが上手い。
日本代表のランチのあと、日曜の午後、クラブのグラウンドでは子供たちの試合が行われている。
サッカーで最も有名なウルグアイの選手と言えば「かみつき男」と異名をとったスアレスで、最も有名なプレーは2010年ワールドカップ準々決勝ガーナ戦での意図的なハンドだろう。サッカーでいうマリーシア(ずるがしこさ)はウルグアイのラグビーにも見られ、2003年ワールドカップのグルジア戦ではシミュレーションの反則を取られている。これは記者が知る範囲では唯一、ラグビーの試合で反則を課されたシミュレーションである。
2005年にウルグアイvs日本戦が行われたのは、普段はサッカーに使われているエスタシオ・ルイス・フランシーニ。ピッチとスタンドを分けるフェンスが鉄条網というところが、彼の地のフットボール熱を想像させた。もちろん、そこまで熱狂するのは違う形のボールの方だろうが。
スタンドには日本を応援する横断幕が。
ウルグアイのラグビーは、これもアルゼンチン同様、富裕層に根付いている。
記者がウルグアイに取材に行った際、タクシーに乗って「オールドクリスチャンクラブへ」と英語で言って通じたドライバー氏は、なんとラグビー経験者だった。このときの南米遠征取材では、モンテビデオとブエノスアイレスで何度もタクシーに乗ったが、英語を話すドライバーは高い確率でラグビー経験者だった。ブエノスアイレスでいえば、「英語を話す=ラグビー経験者=車内にはリバープレートの赤白旗」「英語を話さない=ラグビーなんて知らないし興味もない=車内にはボカジュニオールズの青旗」という構図があった。
日本代表が2005年に遠征したときに練習場としたのは、モンテビデオの名門クラブ「OLD CHRISTIANS CLUB」。このクラブは重い歴史を持つクラブだ。
1972年10月、このクラブがチリ遠征を企て、チャーターした飛行機がアンデス山中で遭難。70日後に生存者2人が自力で下山して救助を求め、29人が命を落としながら16人が奇跡的に生還するという出来事があった(この事件はのちに「生きてこそ」というタイトルで映画かされ、2009年には生存者のひとりナンド・パラードによる実録『アンデスの奇蹟』が山と渓谷社から敢行された)。
ウルグアイ戦の翌日には、日本代表がクラブハウスにランチに招かれ、クラブのロベルト・カネッサ会長、ウルグアイ協会のアントニオ・ビシンティン会長から当時の話を、写真を交えて聞かせてもらった。この二人は1972年の事件の生存者であると同時に、雪山を歩いて下山し、救助を求めた本人だった。
オールドクリスチャンクラブでカネッサ会長の話を聞く日本代表のメンバー。前列にまだ代表デビュー2年目の大野均選手が。
「山の中で耐え抜いた72日間は、まさにラグビーそのものでした。我々は試合に備え身体を鍛えていた。そして自己犠牲の精神と、最後まで絶対に諦めないことをラグビーから学んでいた。それを山の中で思い出しました」(ビシンティンさん)
ウルグアイ協会のビシンティン会長から、当時の話を熱心に聞く日本代表の外国人選手たち。
前日の試合、ウルグアイ代表のCTBで出場したイラリオ・カネッサは、生還したカネッサ会長の息子だった。また、16人の生還者は、2005年の日本代表遠征時、33年が経過しても全員存命だった。 ウルグアイラグビーを支える頑健さが窺える気がした。
■ウルグアイのワールドカップ全成績
1999年大会(ウェールズほか)
○27-15スペイン(ガラシールズ) ×12-43スコットランド(エジンバラ) ×3-39南アフリカ
2003年大会(オーストラリア)
×6-72南アフリカ ×13-60サモア ○24-12ジョージア ×13-111イングランド
2015年イングランド大会
×9-54 ウェールズ ×3-65 オーストラリア ×15-47 フィジー ×3-60 イングランド
■日本とウルグアイの対戦成績
2005/04/16 ×18-24(モンテビデオ)
2015/8/22 ○30-8 (福岡レベスタ)
2015/8/29 ○40-0 (秩父宮)
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