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釜石東中 失われた記録つなぐ 卒業生と共につくる50周年記念誌 協賛呼びかけ

記念誌づくりを進める釜石東中創立50周年記念事業実行委のメンバー

記念誌づくりを進める釜石東中創立50周年記念事業実行委のメンバー

 
 釜石市立釜石東中学校(釜石市鵜住居町)が今年度、創立50周年を迎えた。鵜住居地区の3つの中学校の統合により、1974(昭和49)年に開校、地域とともに歩んで半世紀。これまでの歴史を残そうと、記念誌の作成が進められている。東日本大震災で被災し多くの資料が失われ、情報不足が心配されたが、卒業生らの協力もあって方向性はまとまった。被災の記録と復興への取り組みも加え、後世に伝えるものにするつもりだ。
 
 同校は鵜住居中、箱崎中、栗林中が統合し開校。当時は海に近い場所にあった。さらに橋野中も加わり、その約4年後の2011(平成23)年3月、震災の津波で校舎が全壊。他地域の中学校を間借りして授業を続けた。鵜住居町の内陸部に仮設校舎が設けられると、地区に戻り、同じように被災した鵜住居小児童と一緒に本設校舎の完成を待ちながら約5年間を過ごした。17(同29)年4月から、同町中心部の高台に整備された新校舎(小中併設)で生活を始めた。
 
 もともと防災教育に熱心に取り組んでおり、新校舎が地域の防災拠点としても機能する複合教育施設として整備されたことから、活動を深化。受け継がれた校風、防災の学びや技能を生かそうと、災害発生時の初動対応を行う自主防災組織(自主防)を今年2月に立ち上げた。「助けられる人から助ける人へ」。自分の命を守りつつ、周囲の人も救う姿勢を実践していく。
 
 記念誌の編さんに取り組んでいるのは、同校創立50周年記念事業実行委員会(小笠原慎二委員長)、教職員ら約10人。昨年夏頃から委員らが集まって構成を考え、菊地由紀美副校長(58)が中心となってまとめている。
 
メンバーが話し合いながら編集作業を進めている

メンバーが話し合いながら編集作業を進めている

 
 「足跡、軌跡を振り返ることができる大事な記念誌。思い出を共有できるものをつくりたい」という思いだが、卒業者名簿や卒業アルバムなどの資料を失っているため苦戦。卒業生らにアルバムなど情報提供を求め、寄せられたアルバムから写真を選び、まとめようと奮闘している。入手できたアルバムは39年分で、年度ごとにクラス写真を掲載する予定。また、震災の記録として、同校の防災教育や震災当時の避難行動を紹介する新聞記事なども加える。
 
 記念事業として、昨年10月に同校文化祭に合わせて式典や沿革を紹介する特別展示を実施。展示した写真も記念誌に収める予定で、小笠原委員長(43)や菊地副校長らが、鵜住居の歴史に詳しい同校の学校運営協議会委員の古川幹敏さん(71)の話も聞きながら作成を進める。
 
記念事業として実施した展示で使った写真も掲載する予定

記念事業として実施した展示で使った写真も掲載する予定

 
 同校の卒業生で実行委顧問の川﨑浩二さん(55)は津波で自宅が被災し、思い出の品は残っていない。記念誌の作成に関わる中で、「懐かしい記憶」に触れている。自身の卒業年度のアルバムは被災地域外の同級生が寄せてくれた。「年度ごと、個別だった学校の歩みがひとつになるのが記念誌。一気に見ることができるものは、なかなかない」と発行の意義を強調する。学びやを巣立った人たちが懐かしむだけでなく、「今、学んでいる生徒にも見てほしい。こういう経過があって今あることを知ってほしい」と望む。
 
 編集は終盤に入り、発行に向けて協賛金を募っている。協賛金は2000円からで、記念誌を希望する場合は2000円以上の協賛金が必要。専用フォームから申し込み、指定口座へ振り込む(手数料は自己負担)か、学校に直接持参する。申し込みは23日まで。問い合わせは釜石東中(0193-28-3010)へ。
 

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震災14年 それでも歩み続ける 「あの人」への思い、心にとどめ 支え合って未来へ

地震が発生した午後2時46分、釜石祈りのパークで手を合わせる遺族ら=11日

地震が発生した午後2時46分、釜石祈りのパークで手を合わせる遺族ら=11日

 
 東日本大震災は11日、発生から14年となった。釜石市全域の犠牲者は、関連死を含め1064人(うち行方不明者152人)。平穏な暮らしを一変させたあの日―。命をつないだ人々は深い悲しみと向き合いながら懸命に生きてきた。今年も巡ってきた“3.11”。市内では犠牲者の鎮魂と冥福を祈る人たちが各所で手を合わせ、故人に思いを伝えた。
 
「支え合って生きていく」。追悼の言葉を送った宮田キナヱさん

「支え合って生きていく」。追悼の言葉を送った宮田キナヱさん

 
 「元気に頑張っています」。鵜住居町の追悼施設「釜石祈りのパーク」前広場で開かれた追悼式で、遺族代表の宮田キナヱさん(76)は夫光行さん(当時70)と長男豊さん(同32)に語りかけた。遺体安置所に行った時、思わず大声で泣いた。がくぜんとする中でも「なくてはならない業種だから」と亡き夫が経営し、長男が継ぐはずだった廃棄物収集運搬会社を引き受け、事業を再開。避難所のごみ収集に携わった。多くの支援があったことを報告し、「恩返しのつもりで、精いっぱい仕事をします」と前を向いた。「安心してください。そして、これからも見守って」
 
 遺族や縁故者ら約120人が出席し、市合唱協会員が「いのちの歌」など2曲を献唱。1003人の名を刻んだ芳名板が並ぶ祈りのパークの献花台に白菊を手向け、手を合わせた。
 
祈りをささげる歌声が大切な人をしのぶ女性に寄り添う

祈りをささげる歌声が大切な人をしのぶ女性に寄り添う

 
芳名板に記された文字をなぞり、花を手向け、手を合わす

芳名板に記された文字をなぞり、花を手向け、手を合わす

 
 千鳥町の会社員鬼頭美憲さん(50)は長男佑介さん(22)と訪れ、刻まれた2人の名に手を伸ばした。「時間や年数は経っていくが、気持ちはあの日のまま。捜し歩いた日がよみがえる。下を向く、足を止める時間も必要…だけど、歩いていかないと」。複雑な心境を吐き出す一方で、会社の同僚や市民劇の仲間たちが「顔を上げる力をくれる」とありがたく思う。亡き妻里絵さん(当時34)、長女美佑里ちゃん(同2)に向き合い、心の中でつぶやいた。「(佑介は)たくましく強く育ったよ」「そばにいると思って生きてくよ」
 
「それしかできないから」。魚河岸の岸壁から海を見つめる漁業者

「それしかできないから」。魚河岸の岸壁から海を見つめる漁業者

 
 祈りのパークの場所には震災時、鵜住居地区防災センターがあった。多くの住民が逃げ込み津波の犠牲となった。「親戚がそこで…」と話したのは、浜町の70代女性。魚河岸の市魚市場近くの岸壁で干物づくりを終え、唐丹町で暮らす実弟(60代)と海を眺めていた。女性は津波で自宅を失ったが、ほぼ同じ場所に再建。漁師の夫は「海しか見えない」とこぼしつつ、自身も「小さい頃から見慣れているから、海がないとね」とうなずく。“夫婦漁師”は「あと数年かな」とぽつり。「だんなと一緒に過ごせたらいい」
 
花や菓子を供えて墓参りする遺族=11日昼ごろ

花や菓子を供えて墓参りする遺族=11日昼ごろ

 
 市内の墓地には朝から、遺族らが墓参りに訪れた。大平墓地公園で、亡き夫栄蔵さん(当時67)に手を合わせた佐藤昌代さん(81、大船渡市)。震災時は釜石市浜町に暮らし、夫婦で自営業を営んでいた。「俺、車よけてくっから」。配達から戻った夫の最後の言葉が今も耳から離れない。周りに促され、先に避難所に向かった。「(夫も)きっと逃げているはず…」。迎えにくると信じていたが、安否は不明のまま。2週間後、がれきの下から見つかった。「自分の持ち物には何でも名前を書く人だったので…」。身元確認に行った遺体安置所で対面した夫は別れた時のままの服装だった。仮設住宅に入ったが、「しばらく笑い顔ができなかった」。後に、出身地で妹らが暮らす大船渡市への移住を決めた。
 
「会いに来たよ…」。故人への思いを胸に手を合わせる

「会いに来たよ…」。故人への思いを胸に手を合わせる

 
 昌代さんと墓前を訪れた長女船野有紀子さん(54、宮城県)は、墓石をなでながら家族の近況を報告した。「父は働き者。朗らかで家族思い。私たち娘も5人の孫も、とてもかわいがってくれた」。14年という時の経過はあっても「忘れることは一日もない」。家族が集まると、必ず話題になるのは父のこと。「14年か…。会いたいな」。思い出は決して色あせない。「今は気ままにやっているから」と話す母。近くにいてくれる叔母らに感謝しながら、母が元気でいてくれることを願う。
 
身元不明の遺骨を安置する震災物故者納骨堂(大平墓地公園)で行われた供養

身元不明の遺骨を安置する震災物故者納骨堂(大平墓地公園)で行われた供養

 
 大平墓地公園内には、身元が分からない犠牲者の遺骨を安置する納骨堂がある。全身骨5柱、部分骨4柱が眠る。今年も市関係者、一般市民らが参列して供養が行われた。黙とう後、釜石仏教会(大萱生修明会長、17カ寺)の僧侶9人が読経し、参列者が焼香。いつか家族の元に戻れるよう祈りをささげた。
 
 2018年に納骨堂が完成するまで遺骨を預かり、供養を続けてきた仙寿院(大只越町)の芝﨑恵応住職は「一生懸命生きたはずの皆さんが(震災で)どこの誰かも分からなくなり、遺骨には数字しか並んでいない。非常に悲しい現実がある」と吐露。参列者は「早く見つかってほしい。それまではみんなで供養していく」と思いを寄せた。
 
地震発生時刻に海に向かって黙とう=午後2時46分、鵜住居町根浜

地震発生時刻に海に向かって黙とう=午後2時46分、鵜住居町根浜

 
 午後2時46分―。14年前の地震発生時刻を告げるサイレンが市内に鳴り響く。それぞれの場所で目を閉じ、祈りをささげる人々。あの日、津波に襲われた鵜住居町根浜の旅館「宝来館」には遺族や地元住民、ボランティアの大学生など多くの人たちが集まり、追悼行事(3.11祈りと絆「白菊」実行委主催)が行われた。
 
 市内全小中学校14校の児童生徒から寄せられた追悼と未来へのメッセージを朗読。犠牲者、被災者への思い、自分を生み育ててくれた両親への感謝、命を守る行動への誓い…。震災の記憶、経験がない子どもたちが紡いだ言葉の数々が集まった人たちの心に響いた。
 
さまざまなメッセージを記した風船を大空に放つ

さまざまなメッセージを記した風船を大空に放つ

 
能登半島地震、ウクライナとロシアの戦争…。小中学生からは他地域の被災者らに向けたメッセージもあった。復興や平和への祈りが続く

能登半島地震、ウクライナとロシアの戦争…。小中学生からは他地域の被災者らに向けたメッセージもあった。復興や平和への祈りが続く

 
 津波で両親を亡くした同町出身の民謡歌手佐野よりこさんは「今でも悪い夢であってほしいと思う。大切な人を亡くした悲しみは一生消えることはないだろう」と遺族の気持ちを代弁。「犠牲になった人たちの分まで、一日一日を大切に前を向いて歩いていく」と誓った。天を仰ぎ、“津波てんでんこ”“南部木挽唄(オーケストラバージョン)”を献唱した。
 
佐野よりこさん(右)は津波犠牲者らの冥福を祈り2曲を献唱。古里の海に眠る故人の魂を慰めた

佐野よりこさん(右)は津波犠牲者らの冥福を祈り2曲を献唱。古里の海に眠る故人の魂を慰めた

 
 穏やかに寄せては返す波―。祈りの場となった根浜海岸はこれまでにない静けさをたたえた。夜に予定されていた鎮魂の花火「白菊」は、大船渡市で発生した大規模山林火災を受け、6月に延期された。毎年、同花火打ち上げの手伝いなどボランティアで訪れている奥州市の小笠原徹さん(46)は小学2年までを鵜住居町で過ごした。「震災から2カ月後に来た時は衝撃で言葉にならなかった」。釜石には妻と息子も一緒に。「震災を忘れてはいけない。風化させないよう子どもにも徐々に伝えていきたい」と話した。
 
鎮魂、復興、記憶、希望の4つの言葉が刻まれた「釜石復興の鐘」を鳴らす。大船渡市の山林火災被災者にも思いを寄せて…

鎮魂、復興、記憶、希望の4つの言葉が刻まれた「釜石復興の鐘」を鳴らす。大船渡市の山林火災被災者にも思いを寄せて…

 
 追悼行事は夜まで続いた。鈴子町の釜石駅前広場では夕方、「釜石復興の鐘」の打鐘が行われた。主催した、かまいし復興の祈り実行委の八幡徹也代表は震災と大船渡市の山林火災を重ね、「“まさか”は突然やってくる。私たちは大震災とコロナ禍、2つの“まさか”を乗り越えてきた。大船渡の被災した方々にも心を寄せ、鐘を打ち鳴らしてもらえれば」とあいさつ。招待者に続き一般市民らが鐘を鳴らし、鎮魂と復興への祈りを込めた。長年、鈴子町内会長を務めた澤田政男さん(76、宮古市)は「鈴子は釜石の玄関口。この場所に復興の鐘があることは大きな意味を持つ。訪れた人が震災を思い出し、忘れないための一助になれば」と願った。

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広報かまいし2025年3月15日号(No.1852)

広報かまいし2025年3月15日号(No.1852)
 

広報かまいし2025年3月15日号(No.1852)

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【P1】
表紙

【P2-3】
~ピアニスト 小井土文哉の原点 ~

【P4-5】
プラスチックごみの分別収集を開始します

【P6-7】
サプライヤーパーク・プレオープンマッチ 他

【P8-9】
こどもはぐくみ通信
【医療・福祉関係の学生対象】奨学金を貸与します 他

【P10-11】
まちの話題

【P12-15】
保健案内板
まちのお知らせ

【P16】
市民百景

 

この記事に関するお問い合わせ
釜石市 総務企画部 広聴広報課 広聴広報係
〒026-8686 岩手県釜石市只越町3丁目9番13号
電話:0193-27-8419 / Fax 0193-22-2686 / メール
元記事:https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2025031100022/
釜石市

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釜石市公式サイトと連携し、縁とらんすがピックアップした記事を掲載しています。記事の内容に関するお問い合わせは、各記事の担当窓口までお問い合わせください。
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釜石SW今季ホーム初勝利 大阪に35-24 観客歓喜 リーグ後半戦の巻き返しに弾み

リーグワン2部第7

リーグワン2部第7節 日本製鉄釜石シーウェイブス(赤)-レッドハリケーンズ大阪=8日、釜石鵜住居復興スタジアム

 
 NTTジャパンラグビーリーグワン2部の日本製鉄釜石シーウェイブス(SW)は8日、釜石鵜住居復興スタジアムで行われた第7節の試合でレッドハリケーンズ大阪を35-24(前半14-12)で下し、今季ホーム戦初勝利を挙げた。東日本大震災復興祈念の無料招待試合で選手らはあきらめずに立ち上がる姿を体現し、4426人の観客を魅了。釜石は2勝5敗、勝ち点10で最下位を脱し、7位に浮上した。次節は15日、盛岡市のいわぎんスタジアムで2度目の日野レッドドルフィンズ戦に臨む。
 
 前節まで2位の大阪に挑んだ釜石。前半は2選手がイエローカードで一時退場となる苦しい展開ながら、“3.11”を前にした特別な試合に選手たちの気迫がみなぎった。大阪に先制されるも、13分にナンバー8サム・ヘンウッドが同点のトライ(ゴール成功)。一時13人となった時間帯も我慢のディフェンスで乗り越えた。25分には、けがから復帰し第3節以来の出場となった本県紫波町出身のWTB阿部竜二が今季初トライ。SOミッチェル・ハントはきつい角度のゴールキックを決め14-12と逆転した。残り10分は自陣ゴールラインぎりぎりまで攻め込まれるが、守り切り折り返した。
 
前半13分、ナンバー8サム・ヘンウッドがハーフウェイライン付近から抜け出し、この日初トライ

前半13分、ナンバー8サム・ヘンウッドがハーフウェイライン付近から抜け出し、この日初トライ

 
前半25分、第3節以来の出場となったWTB阿部竜二が今季初トライ。ゴールも決まって14-12と逆転

前半25分、第3節以来の出場となったWTB阿部竜二が今季初トライ。ゴールも決まって14-12と逆転

 
 後半の立ち上がりも上々。WTB阿部は持ち前のスピードで2分、7分と連続トライ。11分には宮城県気仙沼市出身の主将SH村上陽平がきっちり決め、35-12と突き放した。30分以降、大阪に2トライを返されたが35-24、11点差で今季2勝目。阿部、村上2人の東北人が「必ず勝つ」との強い気持ちでチームを引っ張り、4試合ぶりの勝利をおさめた。
 
後半7分、相手の意表をつき抜け出たCTB村田オスカロイドからボールを受け、阿部が3本目のトライ

後半7分、相手の意表をつき抜け出たCTB村田オスカロイドからボールを受け、阿部が3本目のトライ

 
後半11分、SH村上陽平は村田のオフロードパスを受けトライに持ち込んだ

後半11分、SH村上陽平は村田のオフロードパスを受けトライに持ち込んだ

 
SOミッチェル・ハント(左)は5本のゴールキックを全て決め10得点

SOミッチェル・ハント(左)は5本のゴールキックを全て決め10得点

 
 東京都から駆け付けたSWファン松元直樹さん(52)は「これまで気合いが空回りしちゃう部分もあったが、今日は意気込み通りの試合展開。この勝利で今季の戦いもまた変わってくるのではないか。2部は混戦状態。まだまだ挽回のチャンスはある」と期待。「力はある。自分を信じて頑張って」とチームの背中を押した。
 
 試合後、須田康夫ヘッドコーチ(HC)は「首位争いのチームに勝てたことは自信につながる。ラインアウトは改善されてきたが、セットプレーの獲得率はまだ低い。重要な局面でボールを失うと勢いをなくす」とさらなる改善を見据えた。村上主将は「一人一人があきらめずにカバーに走ったり、ディフェンスし続けられたことが大きな勝因」と分析。ブレイクダウンでのターンオーバーなど、相手に終始プレッシャーを与えたことも評価に挙げた。何度も沸き起こった“釜石”コールの大声援が「力になり、ありがたかった」。3月は4連戦。「この試合のハードワークをスタンダードに」と後半戦に挑む。
 
須田HCが「テンポを上げるという部分でも非常によくできていた」と話すラインアウト

須田HCが「テンポを上げるという部分でも非常によくできていた」と話すラインアウト

 
釜石SWの今季ホーム戦初勝利に沸くスタンド。ファンらが喜びを爆発させた

釜石SWの今季ホーム戦初勝利に沸くスタンド。ファンらが喜びを爆発させた

 
 試合会場では、隣町の大船渡市で発生した大規模山林火災の義援金を募る募金活動が行われた。釜石SWの選手らが募金箱を手に入場ゲートに立ち、来場者に協力を呼び掛けた。会場近くの市民体育館は2月27日から新潟、茨城、栃木3県の緊急消防援助隊の拠点となり、周辺には多数の消防車両が待機。来場者は一刻も早い鎮火と被災者の生活再建を願い、気持ちを寄せた。
 
釜石SWの選手らが協力を呼び掛けた大船渡市山林火災義援金の募金活動

釜石SWの選手らが協力を呼び掛けた大船渡市山林火災義援金の募金活動

 
スタジアム近くには消防車両も(写真左)。会場を訪れた多くの人たちが善意を寄せた

スタジアム近くには消防車両も(写真左)。会場を訪れた多くの人たちが善意を寄せた

 

試合を盛り上げる企画も多彩に トーク、記念写真、応援フラッグ、震災伝承 釜石に思い寄せ

 
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車いすラグビー日本代表、橋本勝也さん(福島県出身)のトークショー

 
 試合前には、昨年のパリパラリンピック車いすラグビーで金メダルを獲得した日本代表選手、橋本勝也さん(22、福島県出身)のトークショーが行われた。来場者に同競技のタックルなどを体感してもらう体験会も開かれ、幅広い年代が楽しんだ。
 
 橋本さんは中学2年から競技を始め、わずか2年で日本代表入り。チーム最年少16歳で、世界選手権優勝を経験した。相手を一気に抜き去るスピードを生かした得点力が持ち味。昨年のパリパラ大会では中心メンバーとして活躍し、日本優勝に大きく貢献した。トークでは丸形のボールや専用車いすを見せながら、競技の特徴を紹介。銅メダルで悔しい思いをした東京大会からパリ大会までの道のりを明かした。パリ準決勝で世界ランク1位のオーストラリアを延長戦の末に破ったことを最大の成果に挙げ、「チーム、個人でも東京大会からの成長を見せることができ、大きな自信になった」と振り返った。
 
来場者は車いすラグビーに興味を示しながら耳を傾けた。トークの前には橋本選手のタックルを受けられる体験会も(写真下)

来場者は車いすラグビーに興味を示しながら耳を傾けた。トークの前には橋本選手のタックルを受けられる体験会も(写真下)

 
 橋本さんは地元福島を拠点とするクラブチームに所属。「東北にパラスポーツの文化を根付かせたい」と体験会やSNSを通じた発信に積極的に取り組む。震災復興への思いも強く、「復興の意味合いは人それぞれ。コミュニケーションを取りながら、僕たちにしかできない活動で勇気を与えられたら」と願った。
 
昨季まで釜石SWでプレーした束田涼太さん(左)が写真撮影した来場記念フォトスポット

昨季まで釜石SWでプレーした束田涼太さん(左)が写真撮影した来場記念フォトスポット

 
 「お世話になった釜石に恩返しを―」。昨シーズンで釜石SWを退団、現役を引退した束田涼太さん(28、東京都出身)は、釜石鵜住居復興スタジアム(うのスタ)来場記念のフォトスポットを開き、自ら撮影した写真を来場者にプレゼントした。
 
 束田さんは2020年にSWに入団。釜石市役所に勤務しながら、プロップとして4年間プレーした。退団後、第2の人生に選んだ職業はカメラマン。学校の卒業記念アルバムや教育支援事業を手掛ける、学校写真(本社・東京都)に勤務する。「写真に興味はあったが、本格的に始めたのは会社に入ってから」。大好きな釜石を盛り上げたいと、職場の協力を得て今回の企画を実現させた。
 
 釜石ではうのスタの運営管理やラグビー教室で、子どもたちとの交流も多かった。「今、カメラという別の視点で子どもたちと触れ合うことができ、毎日が充実している」と束田さん。フォトスポットには約200組が訪れ、束田さん撮影の写真のプレゼントに笑顔を広げた。束田さんはSWの勝利にも大喜び。「これだけの観客の中でいい勝ち方ができ、選手たちがうらやましい。ラグビーが恋しくなりました」と笑った。
 
釜石SWとコラボした応援ミニフラッグを来場者に手渡す文京学院大の学生ら

釜石SWとコラボした応援ミニフラッグを来場者に手渡す文京学院大の学生ら

 
 文京学院大(東京都)は産学連携プロジェクトで、釜石SWとのコラボレーション応援ミニフラッグを6千本製作。来場者に無料配布した。「ブレーメンズ」という東日本大震災復興支援プロジェクトを立ち上げ、学生が被災地での活動を続ける同学。釜石では津波で被災した根浜地区での活動を機に、逆境に負けず立ち上がり続ける姿を重ねたキャラクター「ねば~だるま」を制作。うのスタが会場になった2019年のラグビーワールドカップ(W杯)で同キャラのうちわを配布した。
 
 応援フラッグはSWのチームカラー赤を基調とし、チームロゴとラグビーボールを手にしたねば~だるまなど3体を配置。釜石ラグビーの象徴、フライキ(大漁旗)をイメージして作り上げた。会場で直接手渡した4年の三宅快道さん、荒賀弓絃さん(ともに22)は「チームと来場者の心がつながり、士気も高められるような一体感にこだわった。客席でみんなが振ってくれているのを見て感動した」と口をそろえ、「SWは釜石復興のシンボル。スポーツの力を感じる」と実感を込めた。
 
釜石高「夢団」メンバーによる震災伝承、防災啓発の語り部活動。生徒それぞれが伝えたいことを自分の言葉で…

釜石高「夢団」メンバーによる震災伝承、防災啓発の語り部活動。生徒それぞれが伝えたいことを自分の言葉で…

 
 スタジアム内に建つ震災祈念碑「あなたも逃げて」の前では、釜石高の生徒有志で結成する「夢団~未来へつなげるONE TEAM~」が、震災の経験や教訓を伝える語り部活動を行った。夢団の震災伝承、防災活動は19年のラグビーW杯を機に始まり、語り部はSWのホーム戦恒例となっている。
 
 この日が語り部デビューとなった1年の森真心(こころ)さんは震災当時2歳。鮮明な記憶はない。中学生のころ、母方の祖父が津波で亡くなったことを知り、衝撃を受けた。想像しづらい出来事ながら、リアルな現実に触れ、当事者意識を持つようになった。「年月が経過した今だからこそ、震災と向き合い、自分の言葉で少しでも多くの人に伝えていかねば」。自身の気持ちの変化と語り継ぐ大切さを示した森さん。「自然は時に人間があらがえないほどの力を持つ。防災意識を高め、震災の教訓を決して忘れてはいけない―」。亡くなった祖父が住んでいた鵜住居の地で言葉に力を込める。
 
 震災から14年。森さんは「事実をきちんと受け止め、これ以上、犠牲者を増やさないことが大事。自然にはあらがえない。私たちの意識を変えていくしかない」と話し、語り部の話を聞くことが意識変化のきっかけになるよう願う。

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輝かしい伝統「釜石高陸上競技部」 OB・OG会が現役部員と交流 後輩支援で沿岸の雄再び

交流会に参加した釜石高陸上競技部のOBと現役部員ら=市球技場クラブハウス

交流会に参加した釜石高陸上競技部のOBと現役部員ら=市球技場クラブハウス

 
 釜石高校陸上競技部OB・OG会(藤元隆一会長、382人)は2月28日、釜石市甲子町の市球技場クラブハウスで、現役部員との交流会を開いた。2011年の会発足以来、母校の部を物心両面から支援している同会。交流会は16年から年度末に開き、卒業する3年生の送別、1、2年生の激励の場としている。会からは部に支援金も贈られた。
 
 交流会はコロナ禍による3年間の中止を経て昨年から再開された。今回は藤元会長(75、1968年卒)ら県内在住のOB3人、本年度部員の1、3年生14人と顧問の三上昌幸教諭が出席した。藤元会長が三上教諭に支援金10万円を贈呈。部員らは競技種目とともに自己紹介し、3年生は卒業後の進路、1年生は来年度の目標などをOBに伝えた。その後、昼食を取りながら懇談した。
 
OB・OG会の会員3人(写真上)が本年度在籍部員と懇談した

OB・OG会の会員3人(写真上)が本年度在籍部員と懇談した

 
藤元隆一会長(手前右)がOB・OG会からの支援金を顧問の三上昌幸教諭に贈呈

藤元隆一会長(手前右)がOB・OG会からの支援金を顧問の三上昌幸教諭に贈呈

 
 同部には本年度、1年生9人、3年生8人が在籍した。高総体県大会では3年生が男子400メートルハードルで2位と5位、同110メートル同で3位、男子やり投げで2位、4×400メートルリレーで7位、新人戦県大会では1年生が女子やり投げで優勝した。6位以上が進む東北大会では男子やり投げで7位など健闘した。
 
 400メートルハードル2位の奥村晄矢さん(3年)は「3年間の集大成として良い結果を残せた」と充実の表情。リレー2種目でも活躍した。大会では「OBの方々が陣地に差し入れもしてくださり、すごく力になった」と感謝。卒業後は山梨県の大学に進む。「陸上は続ける。激戦区の関東地区で入賞できるよう頑張りたい」と志を立てた。部長を務めた東方飛龍さん(3年)は「後半はけがをした部員もいて大変だったが、(リレーなど)みんなで協力してできる限りの力を出せたと思う。部員が少ない時期もあり、OBの先輩方の応援がとても励みになった」と話す。県内の大学に進学後も競技を続ける予定で、「走り高跳びで2メートルの跳躍に成功できれば」と目標を掲げた。
 
3年生部員は取り組んだ種目や卒業後の進路などをOBに伝えた

3年生部員は取り組んだ種目や卒業後の進路などをOBに伝えた

 
1年生部員は来年度の目標などを話し、競技力アップを誓った

1年生部員は来年度の目標などを話し、競技力アップを誓った

 
 「素晴らしい先輩方に刺激を受け頑張れた」と話すのは大瀬和依さん(1年)。小中は野球、バドミントンで鍛え、高校からやり投げを始めた。大会で好成績を収めた中庭庚さん(3年)から競技を教えてもらい、1年生ながら新人戦で初優勝。「野球の経験を生かせればと始めた。3年の高総体でインターハイ出場を果たしたい」と夢を描く。
 
 釜石高陸上競技部は1946(昭和21)年創部。人口増に伴い釜石南、釜石北の2校に分離(1963年~2008年)後、80年代にかけ、県高総体や同新人戦で男子総合優勝を競い合った。両校合わせ、県高総体では4回、新人戦では5回の優勝を成し遂げ、高校陸上“沿岸の雄”として名をはせた。71年には釜石北が東北大会で初の総合優勝を飾った。
 
 OB・OG会は同部躍進の礎を築いた故金野誠さん(1952年卒、本県陸上競技界への貢献で「秩父宮章」受章)の呼び掛けで、2011年2月に発足した。会設立の1カ月後に東日本大震災が発生。被災した現役部員のために会員らが寄せた義援金約75万円を同部に寄付した。その後も会費などを原資に支援金の贈呈を続けていて、支援総額は約160万円(24年3月時点)に及ぶ。この他、Tシャツ、タオル、テント、横断幕も支援。2年に1回、総会を開き、毎年春に会報も発行している。
 
写真上:藤元会長と菊地憲一さん(右)はともに1968(昭和43)年卒業。最初の男子総合優勝を経験

写真上:藤元会長と菊地憲一さん(右)はともに1968(昭和43)年卒業。最初の男子総合優勝を経験

 
OB・OG会の会報(写真左下)には交流会の様子や会員の寄稿、現役部員の大会成績などが記載されている

OB・OG会の会報(写真左下)には交流会の様子や会員の寄稿、現役部員の大会成績などが記載されている

 
 同部は長年、学校隣の釜石製鉄所グラウンド(ラグビー場兼陸上競技場、現市球技場)を拠点に活動してきた。震災後の改修で陸上用トラックがなくなり、同部は複数の部が利用する校庭の一角で練習。週末に設備の整った宮古市や遠野市の競技場に出向き、実践練習を重ねる。同会からの支援金はそうした遠征費にも活用されている。
 
 三上教諭は「練習環境が十分でない中でも部員たちは工夫して練習し、各種大会で上位に食い込む力をつけてきた。これもOB・OG会の多大な支援のおかげ。非常にありがたい」と感謝。卒業する3年生には「釜石を離れるが、ここでの経験を糧にそれぞれの目標に向け頑張ってほしい」とはなむけの言葉を送った。
 
 同部OB、OGは全国各地に散らばり、マスターズ陸上で活躍する選手も。第2代会長の阿部征次さん(1963年卒)は大学卒業後、複数の大学で後進の育成に尽力。東京女子体育大の学長を務め、現在は釜石応援ふるさと大使としても活動する。4代目の藤元会長は「釜石市の人口はピーク時の3分の1。高校生徒数も減少しているが、部活で得た仲間は一生の宝。OB・OG会員は全国に300人以上いるので、何かの時には相談に応じられる」と先輩、後輩の絆をアピールした。
 
昼食を取りながら和やかに交流。世代を超えて陸上競技で結ばれた絆を深める

昼食を取りながら和やかに交流。世代を超えて陸上競技で結ばれた絆を深める

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消えゆく街の個性 釜石の「呑ん兵衛横丁」 地元出身の写真家、歴史刻む写真集出版

釜石市内の書店に並ぶ写真集「釜石呑ん兵衛横丁」

釜石市内の書店に並ぶ写真集「釜石呑ん兵衛横丁」

 
 かつて、釜石市には夜の街を照らす名物飲み屋街があった。「釜石呑ん兵衛(のんべえ)横丁」。この呼び名で親しまれた飲み屋街は、戦後の焦土から立ち上がった屋台を起源にする。地元の労働者、旅人らが肩を寄せ合う憩いの場だったが、東日本大震災の津波で全壊。その後、仮設店舗で復活も2018年、約60年の歴史に幕を下ろした。
 
 そんな「街の個性」と言える横丁の記録を伝える写真集がこのほど、出版された。撮影したのは、釜石出身のフリーカメラマンで釜石応援ふるさと大使も務める佐々木貴範さん(58)=埼玉県所沢市。「横丁は釜石の歴史と文化の象徴だった。単純に懐かしんでもらえたら。それと、もしかしたら新しい発見があるかも」とメッセージを送る。
 

懐かしさと発見を求め 佐々木貴範さん撮影

 
震災前後の釜石の「呑ん兵衛横丁」を撮り続けた佐々木貴範さん

震災前後の釜石の「呑ん兵衛横丁」を撮り続けた佐々木貴範さん

 
 写真集「釜石呑ん兵衛横丁 東日本大震災で消滅した飲み屋街の記録と歴史」はB5判116ページ。09年8月に取材を始め、約15年かけて撮影、取材した集大成だ。震災の津波で流されながらも、さまざまな支援を受けて仮設商店街で営業を再開した横丁の笑顔に満ちた様子を、震災前の写真と合わせて紹介。仮設店舗の退去後、個々に再建した店も追い続け、撮った約1500枚の中から115枚を掲載した。
 
 1957年ごろ、路地で営業していた店が集まり、大町の長屋に軒を連ねた同横丁。最大で36店が営業し、製鉄業で活気づくまちに憩いの場を提供してきた。2011年の震災時には27店が営業していたが、津波で建物は全壊。同年12月、鈴子町に整備された仮設店舗で16店が営業を再開した。市が大町に整備した本設の飲食店街への移転(3店)、自立再建、店主の死去などで最後に残ったのは6店。5店は本設再建へ意欲はあるものの、期限までに道筋をつけることができなかった。そうして消えた地域の文化の象徴。撮影しながら、調べた歴史の変遷も詳しく記す。
 
震災前の呑ん兵衛横丁があった大町付近。川にフタをするように飲み屋が並んでいた

震災前の呑ん兵衛横丁があった大町付近。川にフタをするように飲み屋が並んでいた

 
鈴子町にあった仮設商店街。退去期限が迫る2018年3月に撮影

鈴子町にあった仮設商店街。退去期限が迫る2018年3月に撮影

 
 佐々木さんは横丁と同時代ににぎわい、03年に廃止となった「橋上市場」の写真集も過去に手がけた。「呑ん兵衛横丁と橋上市場は戦後の復興に貢献し、ともに釜石の名物であり、観光の目玉だった。それが街の個性で、文化だった」。その象徴が消えてしまった寂しさの一方で、今ある文化のさらなる消失を危惧。記録としての写真の役割、力を信じて写真集をまとめた。
 
 「お恵」に「とんぼ」「助六」…。店名を記したそろいの看板が店頭にずらりと並び、夜の街を照らす横丁は“釜石の顔”だった。間口約3メートル、奥行き約5.5メートルの店内はカウンターだけで8人も入れば満席。常連の住民、仕事帰りの人、旅行者たちが集い、お気に入りの店で店主との会話を楽しむ。「一人で入ってもすぐに仲間になれる」。そんな誰もがすぐに打ち解ける雰囲気が写真から伝わってくる。
 

残したかった看板、あの頃 「お恵」店主・菊池悠子さん

 
 「懐かしいね」。そうつぶやきながら写真集のページをめくるのは、同横丁で55年にわたり居酒屋「お恵」を営んできた菊池悠子さん(86)。「もう、やめよう」。望んでいた集団での本設再建がかなわず、横丁を閉じることになった時にそう思った。自宅で過ごす日々が続くと、「ボケちゃう、やだな」。仮設店舗退去後、1年の準備期間を経て、かつて横丁があった、同じ大町で営業を再開した。
 
写真集を手に取る「お恵」の菊池悠子さん

写真集を手に取る「お恵」の菊池悠子さん

 
 「あの頃はおもしろかった」。24歳の時、友人から引き継ぐ形で始めた店の営業は「大変だったけど、楽しかった…やっぱり呑ん兵衛横丁が一番だね」と菊池さん。景気が良かったこともあるが、「人が絶えなかった。(店は)狭くて7人も入れば、いっぱい。人がすれ違うのにぶつかったりするくらいなのがいいんだよね」。仮設店舗時代の時もしかり。「大変でも、みんな前向きで懸命だった。おもしろかった」
 
 ページを進める手を止め、「あの人、どうしているかな」とぽつり。なじみ客、仲間だった横丁の店主らの顔を浮かべた様子だった。その中で、印象に残っているのは仮設時代に店ののれんをくぐった初見の客の言葉。店がいくつもある中で「どうしてうちの店に?」と聞くと、「前を通ったら、大きな笑い声が聞こえてきたから」と答えが返ってきたとか。アハハハ…。菊池さんの笑顔は今も変わっていない。「ありのままなのさ」
 
復活した「お恵」。菊池さんは笑顔と笑い声が味

復活した「お恵」。菊池さんは笑顔と笑い声が味

 
 写真集に収められている店主、客の姿に共通なのは笑顔。横丁を歩く酔客のカットからも、楽しそうな様子が伝わってくる。そんな光景は震災前はもちろん、仮設店舗でも同様。たまに顔を出す佐々木さんがたくさん写真を撮っている姿を記憶する菊池さんは「ありがたいね」と目を細める。“残したかったあの看板”“おもしろかったあの頃”を記録として閉じ込めてくれたことが「うれしい」。今は先のことをあまり考えていないというが、「店は人生そのもの。体が続く限り…ね」と表情は明るかった。
 
写真集には笑顔あふれる横丁の記録が刻まれる

写真集には笑顔あふれる横丁の記録が刻まれる

 
 菊池さんはこの写真集を店に置いていて、客らにとっても「昔の思い出話のきっかけになっている」という。「懐かしんでほしい」との佐々木さんの思いは伝わっている。世代が変わって地元では横丁を知らない人が増え、他地域の人は存在すら知らないだろう。「呑ん兵衛横丁の名を残せなかった」とやりきれなさを感じてきた佐々木さんは「釜石の文化の記録として写真集を手に取ってもらえたら」と願う。
 
 発売を記念し、3月29日に釜石市でトークイベントを開く。佐々木さん、菊池さん、「とんぼ」店主の高橋津江子さんが参加し、写真集制作の裏話、横丁や仮設店舗での出来事など語る。司会は、常連客の一人でもある元市職員の大久保孝信さん。会場は大町の市民ホールTETTOギャラリーで午後2時~、入場無料。
 
 写真集は、トークイベントを主催する桑畑書店(釜石・大町)の店頭に並ぶ。価格は税抜き2800円。インターネット書店でも購入できる。問い合わせは無明舎出版(018-832-5680)へ。

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釜石祈りのパーク 心を込めて清掃 鵜住居地区の住民、中学生ら≪東日本大震災14年≫

芳名板を磨く釜石東中の生徒=3月7日、釜石祈りのパーク

芳名板を磨く釜石東中の生徒=3月7日、釜石祈りのパーク

 
 東日本大震災から14年、より強く大切な人を思う―。祈りが続く3月11日を前に、釜石市民の慰霊追悼施設「釜石祈りのパーク」(釜石市鵜住居町)で7日、清掃作業が行われた。訪れる人たちに落ち着いた気持ちで手を合わせてもらおうと地域住民らが継続する活動に、釜石東中(佃拓生校長、生徒84人)の3年生31人が協力。「地域の一員として受け継いでいく役目がある」と、布を持つ手に力を込めた。
 
 生徒のほか、地域住民15人ほどが参加。市内全域の震災犠牲者1064人(関連死を含む)のうち1003人の芳名板や防災市民憲章碑などが設置されており、参加者が丁寧に布で拭いた。高圧洗浄機などを使って石畳もしっかりと洗浄し、景観を整えた。
 
「地域の一員」として清掃活動に取り組む釜石東中3年生

「地域の一員」として清掃活動に取り組む釜石東中3年生

 
住民と協力して防災市民憲章碑もしっかりと磨く

住民と協力して防災市民憲章碑もしっかりと磨く

 
鵜住居地区防災センター跡地に整備されたことを示す碑もきれいに

鵜住居地区防災センター跡地に整備されたことを示す碑もきれいに

 
 野沢晄真さんは「3.11を特別な思いで迎える人たちが過ごす場所だから」と真剣な表情で取り組んだ。震災当時は幼かったため「覚えていない」という生徒が多く、小笠原早紀さんは「普通の日常が送れることに感謝して過ごしたい」と向き合う。野沢さんは岩手県外へ、小笠原さんは釜石市内の高校へ進学予定。それぞれの道を歩むも、地域に根づく防災を学びながら住まう人たちの思いを感じてきた2人は「いつまでも忘れない。地域の一員として受け継ぐのが役目で、いろんなことをより深く学び、次の世代に伝えられるようにしたい」と、思いは同じだ。
 
 作業後、生徒たちは施設前に並び、「いつかこの海をこえて」を合唱。被災を経験した同校生の思いを歌にした曲に、「希望ある未来に向かう」との決意を乗せた。
 
祈りのパーク前で思いを一つに合唱。「希望の道を進もう」

祈りのパーク前で思いを一つに合唱。「希望の道を進もう」

 
 毎年参加している両川吉男さん(79)は津波で姉2人を亡くした。活動の前に墓参りし、「こっちは元気でいるよ」と伝えてきた。面倒見がよく、「世話されっぱなし」だった。もっと何かやってあげれば、会いにくればよかった…「申し訳ない」。3.11が近づくと、より強く思う。「14年経とうとも気持ちは変わらない」。少し離れた場所から芳名板を見つめつぶやいた。

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第7回 かまいし百円市

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売ってる商品はぜ~~んぶ100円の『かまいし百円市』を開催します。
リユース可能な子供用品、まだまだ使えるおもちゃ、ちょっとしたコレクションアイテム、かつての趣味の名残、ハンドメイド商品・・・など、全て100円のフリーマーケットです!
合言葉は「100円握ってお宝探し!」

出店者一覧(順不同

端材廃材工房65 工芸品、雑貨
安いよ☆ミラクル ぬいぐるみ、古着、古本
M.YAMAZAKI 古本、小物バッグ、ぬいぐるみ、タオル
むくのしっぽ ハンドメイド作品、ぬいぐるみ
夢団 衣類、小物、古本
M.YAMAZAKI 古本、小物バッグ、ぬいぐるみ、タオル
結華 小松生花店 生花
古本屋 雑誌
イワザキ 古着、古本、雑貨など
kumo24 ハンドメイド作品、ぬいぐるみ、古着など
すこの店 子ども雑貨
TETTO 古着、古本、雑貨

日時

2025年3月23日(日)10:00~13:00

場所

釜石市民ホールTETTO・ホール前広場

主催・お問合せ

釜石まちづくり(株)
担当:菅原
TEL 0193-22-3607

フェリアス釜石

釜石まちづくり株式会社

釜石まちづくり株式会社(愛称 フェリアス釜石)による投稿記事です。

問い合わせ:0193-22-3607
〒026-0024 岩手県釜石市大町1-1-10 釜石情報交流センター内 公式サイト

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「まちを守る皆さんへ」 釜石中、消防援助隊へ寄せ書き横断幕 感謝の思い込め

感謝の寄せ書き横断幕を持つ緊急消防援助隊員と釜石中の生徒=釜石市民体育館

感謝の寄せ書き横断幕を持つ緊急消防援助隊員と釜石中の生徒=釜石市民体育館

 
 釜石中(佐々木一成校長、生徒294人)は7日、大船渡市の大規模山林火災に伴い、釜石市鵜住居町の市民体育館を拠点に消火活動に尽力する新潟、茨城、栃木各県の緊急消防援助隊に感謝や激励を込めた寄せ書きを記した横断幕を贈った。「まちを守ってくれてありがとう」「助かります」。慣れない地域での活動を日夜続ける隊員らを思って、文字をしたためた。
 
釜石中の全校生徒がメッセージを書き込んだ横断幕

釜石中の全校生徒がメッセージを書き込んだ横断幕

 
 「消火活動に来てくれた人たちに、中学生としてできることで感謝を伝えよう」と、同校の生徒会が横断幕の贈呈を提案。執行部の岡本あいるさん、久保伶奈さん、岩間心来さん(いずれも2年)、三浦碧人さん(1年)の4人が市民体育館を訪れ、隊員に手渡した。
 
 横断幕は3枚製作。それぞれ中央部分に「全国の消防隊の皆様に心から感謝します」「みなさんはわたしたちのヒーローです」「全国からのご支援ありがとうございます」と文字が記され、その周囲に「力を貸してくれてありがとう」「大船渡のために来てくれてありがとう。頑張ってください」などと全校生徒がメッセージを寄せた。
 
「大船渡がんばろう!」「まちを守る姿がかっこいい」などとメッセージ

「大船渡がんばろう!」「まちを守る姿がかっこいい」などとメッセージ

 
「力を貸してくれてありがとう」「遠くからありがとう」などと感謝をつづる

「力を貸してくれてありがとう」「遠くからありがとう」などと感謝をつづる

 
横断幕の贈呈を見守る3県の緊急消防援助隊員たち

横断幕の贈呈を見守る3県の緊急消防援助隊員たち

 
 4人は「全国から大変な思いをしながらも必死で消火活動に取り組んでいる方々に感謝の思いでいっぱいです。本当にありがとうございます。今回の山林火災を目の当たりにして釜石中としてもより一層防災への意識を高めていこうと改めて思いました。これから未来へつないでいきます」と思いを伝えた。
 
 新潟県の後方支援隊長を務める新潟市中央消防署の田中勝消防司令(55)は「地震や山林火災など自然災害が相次ぎ大変だが、お互いに助け合っていきたい」と気を引き締める。中学生から届けられた気持ちを受け止め、表情を緩める場面も。「樹木などに火種が残っていたり厳しい環境だが、頑張れる」と力にした。
 
生徒たちの思いが込められた横断幕が体育館に掲げられた

生徒たちの思いが込められた横断幕が体育館に掲げられた

 
 同校では、被災者を支えようと募金活動も展開。岡本さんは「山林火災が早く鎮火するよう、頑張ってもらいたい。親戚が大船渡に住んでいるので、早く元の生活に戻ってほしい」と願った。
 
 この日、釜石市も激励として飲料水(仙人秘水)を各隊に贈った。
 
 大船渡の山林火災は隊員らによる地道な活動などによって、延焼の恐れがなくなったことから、9日夕、大船渡市が鎮圧を宣言。それにより、釜石に拠点を置く3県の消防援助隊も活動を終える。

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障害児のプール着替えの助けに NPOプラスワンハピネス釜石市に寄付 ふるさと納税活用 

釜石市に寄付金を贈呈した認定NPO法人プラスワンハピネスの高橋大輝副理事長(右)

釜石市に寄付金を贈呈した認定NPO法人プラスワンハピネスの高橋大輝副理事長(右)

 
 障害児支援活動を行う釜石市の認定NPO法人Plus One Happiness(プラスワンハピネス、横沢友樹理事長)は2月27日、市営プール多目的トイレへのフィッティングボード(収納式着替え台)設置などに使ってもらおうと、市に20万円を寄付した。ふるさと納税の団体支援制度を活用したもので、同NPOの同市への寄付は初めて。高橋大輝副理事長が市役所を訪ね、小野共市長に寄付金を手渡した。
 
 同NPOは2022年2月に設立。24年12月、税制上のさまざまな優遇措置がある“認定NPO”になった。誕生のきっかけは「生まれた場所、住んでいる場所によって、受けられる支援が違うのはおかしい」という障害児の親からの声。支援の地域差を埋められるようにと、同市出身の医療、福祉従事者らが立ちあげた。ダウン症児の家族交流会、同赤ちゃん体操教室の開催のほか、定内町に開設した釜石広域基幹相談支援センター(高橋大輝センター長)での障害児放課後預かり、月1回(休日)のおもちゃ図書館(遊び場)開放などを行っている。
 
釜石市と大槌町から委託を受け、昨年4月に開設した釜石広域基幹相談支援センターのセンター長も務める高橋さん。障害児(者)支援の取り組みについて話した 

釜石市と大槌町から委託を受け、昨年4月に開設した釜石広域基幹相談支援センターのセンター長も務める高橋さん。障害児(者)支援の取り組みについて話した

 
 「君の『やりたい』を『できる』に変えるプロジェクト」として昨夏には、海に入ることが困難な障害児に海水浴を楽しんでもらうイベント「ユニバーサルビーチ」を企画(台風のため中止、25年度開催予定)。今回はプロジェクト第2弾として、着替えに介助が必要な障害児のために、市営プール内に男女共用着替えスペースを確保する資金を寄付した。
 
 高橋副理事長は「ふるさと納税でたくさんの寄付をいただいている。今後も障害児(者) が市内で暮らしやすい環境に寄与していければ」と決意。小野市長は「障害を持つ人たちにやさしいまちは誰にとってもやさしい。(同NPOへの)市民、県民の期待の大きさを感じる。今後とも市政推進にご協力を」と願った。
 
小野市長らと子どもの遊び場についても意見交換した

小野市長らと子どもの遊び場についても意見交換した

 
 同NPOは障害の有無に関わらず、地域の子どもたちが通年利用できる屋内型遊び場の整備も検討中。懇談では市との連携も話題に上った。「理想はインクルーシブ。地域にはいろいろな子どもがいる。『みんな違って、みんないい』というところを感じてもらえる場所にできれば」と高橋副理事長。今後も「当事者の声、ニーズを一つ一つ丁寧に拾っていける法人でありたい」と話した。
 
 同市のふるさと納税の団体支援制度は2020年度から開始。現在8団体が支援対象となっている。

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「あの日を忘れない」釜石の記憶をつなぐ 震災題材の舞台3本立て 8、9日上演

震災の記憶をつなぐ公演に向けて稽古を重ねる演者たち

震災の記憶をつなぐ公演に向けて稽古を重ねる演者たち

 
 「あの3月11日を忘れない 一人の芝居とドラマリーディング」は3月8、9の両日、釜石市の2会場で上演される。同市の劇団もしょこむの小笠原景子さん(40)、東京の劇団黒テントの内沢雅彦さん(64)=同市大只越町出身=による一人芝居2演目と、地元の中高生ら3人を交えたドラマリーディング1演目という3本立て。どの演目も地元ゆかりの作家の著書を原作にし、東日本大震災の“記憶をつなぐ”と思いを込めて舞台を創る。
 
 内沢さん出演「もう一人の私へ」は、鵜住居町出身の小説家沢村鐵(てつ)さんの短編が原作だ。「あの記憶に触れるときに平静でなどいられない。…脚色が不要どころか、悲惨すぎてぼかすことが必要な現実なのだから」。偶然が重なって被災を免れた一人の作家が“砂漠のような”更地のまちで生活する中で、あったかもしれない過去に思いをはせ、複雑な胸の内を息子への手紙につづる。文字として記された気持ちを自らに問いかけながら舞台に上がる。
 
 小笠原さん出演「釜石の風」は、釜石高の教諭だった俳人照井翠さんのエッセーが原作。「私達は三月を愛さないし、三月もまた私達を愛さない」。惨状、混乱、残された人たちと苦悩…、そして復興に向かうまちの様子、希望。震災後に市内外の被災地を訪ね、見聞きしたこと、感じたことが記された一文一文を、演劇に写し出す。
 
震災を題材にした公演「あの3月11日を忘れない」のチラシ

震災を題材にした公演「あの3月11日を忘れない」のチラシ

 
 内沢さんが地元の子どもらとタッグを組み上演する「自然とのかかわりを問い直す」の原作は、平田出身のフリーライター中川大介さんの著書「水辺の小さな自然再生」。巨大な防潮堤の建造、海との遮断、そしてでき上がった「安全なまち」への戸惑い…。古里・平田の変貌を記した部分を抜き出し、自然との関わりや向き合い方を問いかける。「恵みと厄災の双方を受け止め、自然と折り合っていく道を見つけることはできるだろうか」
 
 「自然との~」は演者が体を動かしたりもするが、基本的には台本などのテキストを読んでいるのを見せるスタイル、ドラマリーディングという形で披露。高校生の森美惠さん(17)、中学生の川端俐湖さん(13)が出演。森さんの父・一欽さん(51)も参加し、「風化と伝承」をテーマに思いを話す。
 
 公演を前に2月14日、リーディングチームが稽古。挿入する音源や間合いなどを確認した。昨年5月頃から月1回ほど、オンラインで読み合わせなどを行ってきた美惠さんは「哲学的で難しい部分もあるが、自分の知らない視点に触れられて興味深い」と楽しそうに話す。震災時は幼く、「記憶があまりない」。ただ、何かは感じていた。高校では震災伝承の活動にも取り組んでいるが、若い世代の語りに「葛藤している」。そんな中で得た、「あの日」を伝える機会。「私たちだから響くものがあるはず。そんな語りに新しさを感じてほしい」と思いを込める。
 
自然とのかかわりを問い直す」の公演に向けて喫茶かりやで稽古

「自然とのかかわりを問い直す」の公演に向けて喫茶かりやで稽古

 
内沢雅彦さん(左)のアドバイスを聞く川端俐湖さん(右)と森美惠さん

内沢雅彦さん(左)のアドバイスを聞く川端俐湖さん(右)と森美惠さん

 
 震災があった2011年に生まれた川端さんは「経験はしていないけど、震災や防災に関心を持っている子どもはいる。これまでの学びや経験で感じた気持ちを思い出しながら、この話の主題、理解してほしいことを見つけて伝えたい」と向き合う。
 
 この公演は23年に内沢さんが始めた。1人の活動が、翌年には小笠原さんが加わり、今回はさらに3人増えた。「演じることが何になるのだろうと思う時もあるが、語り、演じるしかない」と内沢さん。3つの作品によって、「共感できる見解でそれぞれの記憶を思い出し、語り合うだけでも意義があると思う」と話す。若い世代が手を挙げてくれたことをうれしく感じ、声の強弱や表情など熱心に助言していた。
 
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楽しそうに取り組む若者2人を内沢さん(中)が見守る

 
 小笠原さんは独自に稽古中。なぜ3月に被災地で演じるのか―。「つらいことを思い出させることに葛藤がある」というが、昨年演じたことで、「思い出す日は必要だ」と改めて感じている。「感情の記憶は人それぞれで、共感できる部分も違う。でも、深く、じっくり、誰か、何かを自分なりに思い出さないと忘れてしまう。つらいだけではない、あたたかさや感謝、乗り越えてきたことを…。そんな何かをゆっくり思う時間、感情を重ねるきっかけにしてもらえるよう演じたい」と思いを深める。
 
3月の公演に向けて独自に稽古を重ねている小笠原景子さん

3月の公演に向けて独自に稽古を重ねている小笠原景子さん

 
 自然災害が各地で頻発する中、「失ったものへの祈りや未来へのまなざしを確かめる」古里公演を企画し続ける内沢さん。「3・11に刻みつけた記憶、思いに向き合うきっかけになれば」と来場を呼びかける。
 
◇公演スケジュール
【昼の部】会場は喫茶かりや(釜石市大町)。料金は1000円(ドリンク別)。
8日午後2時から「もう一人の私へ」、午後5時から「自然とのかかわりを問い直す」
9日午後1時30分から「自然とのかかわりを問い直す」、午後4時から「釜石の風」
【夜の部】会場はジャズ喫茶タウンホール(同)。料金は1000円(ドリンク別)。
8日「釜石の風」、9日「もう一人の私へ」。いずれも午後7時半から。

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甲子大畑「不動の滝」で描く幻想ストーリー 第38回釜石市民劇場450人が楽しむ 

第38回釜石市民劇場 大畑・不動の滝「女神と木伐(きこ)る男」伝奇=2月23日、TETTO

第38回釜石市民劇場 大畑・不動の滝「女神と木伐(きこ)る男」伝奇=2月23日、TETTO

 
 第38回釜石市民劇場(実行委主催)は2月23日、同市大町の市民ホールTETTOで上演された。豊かな自然に囲まれた甲子・大畑の名勝「不動の滝」で繰り広げる創作劇。そこに生きる村人たちに起こる不思議な出来事を通して、人の心のありよう、家族の絆などを描いた。午前と午後の2回公演に約450人が来場し、市民手作りの舞台劇を楽しんだ。
 
 物語の舞台は明治初期の甲子村。釜石村鈴子に製鉄所が稼働し、山あいの村では燃料の木炭を供給するため、村人が炭焼きに精を出していた。ある日、炭焼き人の良吉は地元民の憩いの場「不動の滝」周辺の清掃に出かける。枝払いをしていた時、誤って鉈(なた)を滝つぼに落としてしまう。困惑していると、滝から黄金色の斧を持った水神様が現れる。女神の問いかけに、自分の物ではないと正直に答える良吉。その様子を物陰から見ていた村人の武三は欲に駆られて…。
 
主人公の良吉(右)は妻と娘、村人たちと平穏に暮らしていた

主人公の良吉(右)は妻と娘、村人たちと平穏に暮らしていた

 
滝つぼにわざと斧(おの)を投げ入れ、女神から黄金の斧をもらおうと嘘を重ねる武三(左)

滝つぼにわざと斧(おの)を投げ入れ、女神から黄金の斧をもらおうと嘘を重ねる武三(左)

 
炭焼きの先輩作治(左上写真右)から助言をもらい、10日ほどの山ごもりに意気揚々の良吉

炭焼きの先輩作治(左上写真右)から助言をもらい、10日ほどの山ごもりに意気揚々の良吉

 
 イソップ寓話的な導入部から始まる物語は同実行委の久保秀俊会長(76)が創作。想像される当時の村人の暮らし、自然への敬意を非現実の出来事と絡め、人生訓や助け合いの精神、家族の絆などを描いた。子どもから老人まで各登場人物のキャラクターをキャスト15人が演じ分け、物語が進んだ。
 
 滝での出来事を機に災難に見舞われる武三。炭焼き作業に出かけたまま、行方不明になってしまう良吉。心配して探し回る村人に武三は滝で起こったことを正直に話す。心労で床に伏していた良吉の妻みゑは武三の話を聞き、いちるの望みをかけ、滝の祠にお百度参りを繰り返す。行方不明から1年後…。滝に来ていたみゑの目の前に夫良吉が突然現れる。滝の女神の褒美で1日だけ竜宮御殿に招かれていたという良吉。摩訶不思議な出来事に村人たちも騒然となるも、親子3人の再会を喜び合い、クライマックスを迎える。
 
滝の女神の怒りをかい、災いが降り懸かり倒れ込む武三。驚いた村人が駆け寄る

滝の女神の怒りをかい、災いが降り懸かり倒れ込む武三。驚いた村人が駆け寄る

 
山に入った良吉がいなくなったと告げる作治(左)に詰め寄る娘モモ(中央)と妻みゑ(右)

山に入った良吉がいなくなったと告げる作治(左)に詰め寄る娘モモ(中央)と妻みゑ(右)

 
写真左:滝での出来事を作治に告白する武三(左) 同右:夫の無事を願い、滝の祠にお百度参りを続けるみゑ

写真左:滝での出来事を作治に告白する武三(左) 同右:夫の無事を願い、滝の祠にお百度参りを続けるみゑ

 
写真上:行方不明から1年後、妻の前に姿を現す良吉。驚きと混乱のみゑ 同下:良吉を見て村の子どもたちも騒然

写真上:行方不明から1年後、妻の前に姿を現す良吉。驚きと混乱のみゑ 同下:良吉を見て村の子どもたちも騒然

 
 会場には幅広い年代の観客が足を運び、市民の手作り舞台を楽しんだ。同市中妻町の女性(73)は「子どもたちの演技がよくできていた」と称賛。同劇場には、ほぼ毎年足を運んでいて、「職業も年代もばらばらの人たちが劇を通して、横のつながりを広げていけるのはとてもいいこと」と話した。大槌町の久保晴陽さん(9)は「神様が出てくるところが面白かった。自分も劇をやってみたい」と興味をそそられた様子。妹と弟3人が出演した青山萌華さん(17)は「昨年よりも声が出ていて、演技もうまくなっていた」と頑張りをたたえた。自身も昨年までスタッフとして参加。今回は観客側の目線も体験し、新たな発見もあったよう。
 
3姉弟で参加した(左から)女神役の青山凜々華さん、荷馬車業一家の子ども役の涼華さん、一樹さん

3姉弟で参加した(左から)女神役の青山凜々華さん、荷馬車業一家の子ども役の涼華さん、一樹さん

 
 今回出演した15人中4人は釜石高の生徒。初挑戦の前見琉綺亜さん(16)は同校音楽部に所属し、「部活が終わってからの劇の稽古で両立が大変だった」と明かしつつ、荷馬車業一家の面倒見の良い姉役を役作りし演じ切った。観客の反応も舞台上で感じ、「笑ったり、悲しい場面に共感している様子を見て、ちゃんと伝わっているんだとうれしくなった」と演劇の醍醐味を感じていた。
 
釜石市民劇場初出演の前見琉綺亜さん(左)と及川蒼太さん(右)

釜石市民劇場初出演の前見琉綺亜さん(左)と及川蒼太さん(右)

 
 大人では唯一の初出演となった及川蒼太さん(25)は、13~14歳設定の子ども役に挑戦。1月後半からの立ち稽古で「セリフと動きを合わせるのに苦労した」というが、本番では「大勢の人の前で演技するのは新鮮で面白かった」と舞台特有の空間を楽しんだ様子。最初の緊張もすぐにほぐれたようで、「いい思い出になった」と貴重な経験に笑顔を見せた。
 
 出演者最年長の両川吉男さん(79)は約20年ぶりに舞台復帰。久保会長から懇願され決断したが、「年を取るとセリフが出てこなくてね。プレッシャーで眠れない日も…。若い人たちに支えてもらって何とかやり遂げられた」と感謝。苦労は多かったが、「孫のようなめんこい子どもたちが『じいちゃん、じいちゃん』って慕ってくれて。今日は地元の茶飲み仲間も見に来てくれてうれしかった」と目尻を下げた。宮古市から駆け付けた長男英寿さん(43)は「父はみんなについていくのが大変だったと思うが、最後まで演じ切れて良かった」と拍手を送った。
 
久しぶりのキャスト両川吉男さん(左から2人目)も熱演。市民劇場にはスタッフとしても関わっていた

久しぶりのキャスト両川吉男さん(左から2人目)も熱演。市民劇場にはスタッフとしても関わっていた

 
 釜石市民劇場は1986(昭和61)年度に、当時の釜石市民文化会館自主事業としてスタート。2003(平成15)年度から実行委員会が実施主体となり、年1回の公演を続ける。東日本大震災で会場の同会館が被災した後は、釜石駅前にあったテント施設、シープラザ遊で公演。現市民ホール完成後の2018(平成30)年度から同ホール公演が実現した。
 
終演後、舞台あいさつをするキャスト、スタッフら。主人公良吉役の菊池圭悟さん(写真左上)が観客と関係者にお礼の言葉を述べた

終演後、舞台あいさつをするキャスト、スタッフら。主人公良吉役の菊池圭悟さん(写真左上)が観客と関係者にお礼の言葉を述べた

 
笑顔で観客をお見送り。改めて来場への感謝の気持ちを伝えた

笑顔で観客をお見送り。改めて来場への感謝の気持ちを伝えた