釜石祈りのパークで、犠牲になった人の名を見つめる遺族ら
東日本大震災は11日、2011年3月の発生から12年となった。岩手県内で関連死を含めた死者・行方不明者は6255人。県との合同追悼式が行われた釜石市では912人の命が奪われ、152人の行方が分かっていない。あの日を思い、被災各地で続いた祈り。遺族らは変わらぬ思いで大切な人をしのび、地域を担う若者たちは体験を継承し「未来の命を守る」と決意した。そんな1日を写真で伝える。
県と釜石市合同で行われた追悼式。市合唱協会が献唱した
合同追悼式は釜石市民ホールTETTO(大町)を会場に、渡辺博道復興相や遺族ら約250人が参列した。午後2時46分の地震発生時刻に黙とうし、達増拓也知事は「教訓を忘れることなく次の世代に語り継ぎ、大切な人に思いを寄せ、ふるさと岩手を築いていく」と式辞。野田武則市長は「市民が夢と希望を持って、生き生きと暮らせる街づくりに全身全霊で取り組む」と誓った。
「父さん、母さん、どうしているの?」。遺族を代表し追悼の言葉を述べたのは、婦人消防協力隊のはんてんをまとった平田・尾崎白浜の佐々木淳子さん(67)。津波で鵜住居町の実家、父の前川朝吉さん(当時87)と母マサさん(同84)を失った。悲しみをにじませながらも、さまざまな人とのつながりで変化したこの12年を振り返り、未来の命を守るための決意を示した。「災害弱者である高齢者や障害者の対応など課題は多く、教訓を伝える重みは増している。防災市民憲章『備える』『逃げる』『戻らない』『語り継ぐ』を継承していく」
追悼式を終え、取材に応じる佐々木淳子さん
市内各地で あの人思い、手を合わす
祈りのパークで「あの人」の名を探し、手を合わせる遺族ら
市内全域の震災犠牲者1064人のうち、1002人の芳名が掲げられる鵜住居町の追悼施設「釜石祈りのパーク」には遺族や縁故者らが次々に訪れ、献花して手を合わせた。片岸町の山﨑恵一さん(87)は津波で亡くした長男宏さん(当時44)に会いに来た。「無念、残念…言葉に表せない。元気でいてもらいたかった…愚痴が出る。海が好きな子で、まだやりたかったこともあったろう」。複雑な気持ちのまま迎えた十三回忌。「いつかは区切りがつくだろうか」とつぶやいた。
箱崎町出身の植田詩季さん(19)は、母方の祖母が行方不明のまま。刻まれた名を見つめ感情がこみ上げた母親が足早に離れる中、「頑張ってるから、見守っていてね」と語りかけた。当時小学1年で、津波の恐ろしさは分からなかった。大槌高校で防災に関する学びを深め、大学生になった今は被害の深刻さ、防災の重要性を認識する。そして、優しかったおばあちゃんに誓う。「地元に帰ってくるから。地域、人をつなぐために」
「わすれない」。納骨堂の前で手を合わせる参列者
身元不明遺骨を安置する平田の大平墓地公園内の大震災物故者納骨堂では、釜石仏教会(大萱生修明会長、14カ寺)による法要があった。現在、全身遺骨5柱、部分骨4柱を安置。僧侶9人が読経する中、参列者が焼香した。導師を務めた仙寿院(大只越町)の芝﨑恵応住職は「家族の元に戻れず、つらい思いをしている人がいることを忘れてはいけない。その方の分も幸せになるよう、必死に生きなければ」と呼びかけた。
殉職した消防団員を追悼。ハンカチで涙をぬぐう遺族ら
鈴子広場(鈴子町)にある「殉職消防団員顕彰碑」前で行われた献花式。震災で職務遂行中に命を落とした仲間8人に「団員の安全を確保しながら市民生活を守る活動に力を尽くす」と誓った。佐々木金一郎さん(当時64)の長男、幹郎さん(38)は家族3人で参列。「使命感で動いて、大変な思いで亡くなっていったのだろう。残された自分たちも、それに恥じないような生き方ができればいい」と言葉をかみしめた。
魚河岸テラスで鐘の音に思いを託す人たち
釜石湾を一望できる魚河岸テラス。2階デッキにある鐘を高らかに響かせ、海を見つめていた遺族ら。「十三回忌…区切りではない」。北上市から足を運んだ家族連れは「震災のことを考えたい」。復興道路の三陸沿岸道路(三陸道)を使って被災地の様子を確認するつもりだ。
あの日を「忘れない―」 追悼、記憶の継承へ 夜まで続いた12年目の“祈り”
海に向かって黙とうをささげ(左下写真)、風船を放った追悼行事=宝来館
地震発生時刻の午後2時46分―。鵜住居町の根浜海岸周辺では津波犠牲者を悼み、冥福を祈る黙とうがささげられた。海岸前の宿・宝来館で行われた追悼行事。集まった人たちはメッセージを書き込んだ色とりどりの風船を大空に放った。約1カ月前に発生したトルコ・シリア大地震、1年以上続くロシアによるウクライナ侵攻の犠牲者、被災者にも思いを寄せ、鎮魂と平和への願いを発信した。
オーケストラ用に編曲された「南部木挽唄」を献歌する佐野よりこさん(左)と歌に聞き入る人ら
震災の津波で、鵜住居町に暮らす両親を亡くした民謡歌手の佐野よりこさん(盛岡市)。「海に、天に届け」と、最愛の両親から授かった歌声を地元で響かせ、犠牲者の魂を慰めた。悲しみと向き合いながらの12年―。「あっという間」とする一方で、地域の人たちが年を重ねた姿に確実な年月の経過も実感する。一日たりとも忘れることはない両親-。「やっぱり恋しい…よね」と思いを募らせる。
復興で大きく形を変えた古里。うれしくもあり、寂しくもあり、複雑な思いが入り交じる。記憶の風化は避けられないが、残された者として「震災を伝え続ける」責務を心に刻む。「よりこ、頑張れ」。姿は見えずとも近くで見守ってくれている両親の声を想像し、「一日一日を大切に、しっかり生きていかなければ」と誓った。
「釜石復興の鐘」の打鐘(右)。賛美歌や自作の歌に祈りを込める新生釜石教会の柳谷雄介牧師
鈴子町、釜石駅前広場の夕刻。鎮魂、復興、記憶、希望―の4つの言葉が刻まれた「釜石復興の鐘」が、市民らによって打ち鳴らされた。震災発生年の12月、市民有志のプロジェクトにより建立された鐘。被災から立ち上がるまちに清らかな音を響かせてきた。プロジェクトの八幡徹也代表は「あの日の情景はすぐに目に浮かぶ。これからも記憶をとどめ、次の世代に伝えていかねば」と意を強くした。
釜石仏教会による竹灯籠供養=釜石祈りのパーク
朝から献花に訪れる人が続いた釜石祈りのパーク。夕方には釜石仏教会による竹灯籠供養が行われた。約1200個の灯籠で形作った「忘れない」の文字が、揺らめくろうそくの明かりで浮かび上がった。僧侶の読経に続き、遺族らが焼香。釜石、大槌、遠野の子どもたちによるバイオリン献奏が慰霊の空間をやさしく包んだ。同会の芝﨑恵応・仙寿院住職は「亡くなった人と共に生きていたこと、震災の教訓をいつまでも忘れないでほしい」と願った。
鎮魂の花火「白菊」と、海面を照らす「とうほくのこよみのよぶね」(写真:画面上で合成)
日が落ちた根浜海岸。防潮堤や松林にキャンドルの明かりがともる中、今年も「海の祈りの風景」が広がった。海上には「3・11」の舟形あんどんが浮かび、午後7時、鎮魂の花火「白菊」が打ち上げられた。花火玉には市内3小中学校の児童生徒が寄せたメッセージを貼り付けた。「あの時3歳だった子は今年、中学を卒業する。みんなに守られ、懸命に生きてきた。津波で亡くなった親御さんも成長に安堵していると思う」。宝来館のおかみ岩崎昭子さんはそう言って、12年の時の重みをかみしめた。