艦砲射撃の体験を語った佐々木郁子さん(左下)と「翳った太陽」を歌う会のメンバー
今日7月14日は、太平洋戦争末期の1945年、釜石市が米艦隊による本州初の艦砲射撃を受けた日。同年8月9日には米英両艦隊による砲撃も受け、2度の攻撃で多くの尊い命が失われた-。この惨禍を伝える女声合唱組曲「翳(かげ)った太陽」を歌う会(種市誓子会長、11人)は今月8日、艦砲体験者の話を聞く場を設けた。戦争の恐ろしさ、平和への願いを再認識したメンバーは、8月9日に行われる市戦没者追悼式で同曲の献唱を予定する。
艦砲射撃の実体験を語ったのは甲子町在住の元看護師、佐々木郁子さん(93)。佐々木さんは看護師見習として15歳で入った釜石製鉄所病院で戦禍に見舞われた。1回目の7月14日は午前5時ごろから警戒警報が発令されていた。当時、鈴子にあった病院に出勤した佐々木さんは入院患者を敷地内の防空壕(ごう)に避難させ、外来患者の診療にあたっていた。
正午間近、敵機襲来の一報で防空壕に駆け込んだ。「ビューン!ガーン!ドーン!」。正午過ぎに始まった海上からの砲撃は約2時間も続いた。佐々木さんは恐怖に震えながら友と励まし合い、じっと耐えた。壕を出ると、鈴子一帯は無残な廃墟と化していた。散乱する死体も目にした。「皆さん、想像できますか―?」。問いかける佐々木さん。
釜石製鉄所病院勤務時に受けた2度の艦砲射撃について語る佐々木郁子さん。当時15歳
その後、現在の八雲町・大天場運動広場(旧釜石第二中跡地)の場所にあった高等女学校に病院機能が移され、砲弾の破片で負傷した多くの人が運び込まれた。佐々木さんは夜の巡回で、暗闇の中「苦しい」「助けて」と泣き叫ぶ負傷者にどうすることもできなかったつらさ、悔しさを吐露。当時の光景は、今も鮮明に目に浮かぶという。
7月14日、8月9日の2回の砲撃で市内に打ち込まれた砲弾は5300発以上。1回目は製鉄所を中心に鈴子、只越、松原、嬉石地区、2回目は社宅のあった中妻、小佐野、小川地区にまで被害が及んだ。犠牲者は合わせて782人(2023年度釜石市調べ)に上る。
合唱メンバーや関係家族など18人が佐々木さんの話に聞き入った
艦砲射撃の実態をメモを取りながら学ぶメンバー
「戦争の記憶は決して消えることはない。今でも思い出すと胸が苦しくなる」と佐々木さん。「戦争は人災。皆さんの力によって防ぐことができる。日本が永遠の平和国家であることを切に願う―」。猛勉強を重ね終戦後、18歳で看護師資格を取得。23歳で助産師の資格も得た。約40年、医療現場に身を置いた佐々木さんは命の大切さを一層強く感じ、ロシアによるウクライナ侵攻で多くの命が奪われる理不尽な現状に心を痛めている。
講話後、最知節子さん(左)の指揮で「翳った太陽」を合唱
佐々木さんの話を聞いた後、会のメンバーは練習を重ねる「翳った太陽」を歌った。同曲は、艦砲射撃で教え子を亡くした元小学校教師の石橋巌さん(2006年他界)が記した絵手紙などを基に作られた。全6曲17分の組曲で、市内のピアノ講師最知節子さんが作曲した。最知さんの指導で05年から曲を歌い継ぐ会は、戦没者追悼式での献唱のほか、学校訪問コンサートなどで艦砲戦災を伝える活動を続けてきた。現在、合唱メンバーは9~87歳の11人。
佐々木さんの話を聞き、情景を頭に描きながら歌うメンバー
次世代の継承を担う小中学生も歌に思いを込める
小学5年から活動に参加する髙橋杏奈さん(釜石中1年)は、今回初めて艦砲体験者の話をじかに聞いた。「教わった戦争の恐ろしさ、平和の大切さをもっと伝えられるように心を込めて歌っていきたい」。ニュースで見聞きするウクライナの惨状も心配し、「艦砲射撃みたいなことが現実に起こっている。何とか早く収まってほしい」と願った。
杏奈さんの母登紀子さん(49)は昨年9月から会に参加。「歌詞の内容と今日聞いた話がすごく重なる部分が多い」と話し、歌で伝える使命の重みを実感する。戦争のない世界の実現も強く願い、「とにかく一人一人があきらめずに(反戦の)声を上げることが必要だと思う」。初めて歌う追悼式では「今ある平和への感謝も込めて歌いたい。この曲が少しでも反戦の気運を高めることにもつながれば」と話した。
体験を話してくれた佐々木さんに感謝の気持ちを伝える小中学生
佐々木さんは子どもたちに平和への願いを託した
会のメンバーはほとんどが戦争を体験していない世代。体験者の話を聞くことで曲への理解を深めようと、同様の機会をこれまでにも6回設けてきた。戦後78年―。体験者は今後も減少していく。会の活動は来年で20年目を迎える。種市会長は「メンバーの高齢化が進む。ぜひ、若い世代にも入ってもらい、この曲を長く歌い継いでいきたい」と思いを込めた。