午後2時46分。釜石祈りのパークで大切な人を思い、黙とうする市民ら
釜石市内で912人の命を奪い、152人の行方不明者を出した東日本大震災は11日、発生から13年を迎えた。歳月が流れても大切な人への思いは変わらない―。多くの人がさまざまな場所で祈りをささげた。震災を知らない世代が増えていく一方、元日の能登半島地震など自然災害は頻発。釜石の記憶や教訓を世代、地域を超えて伝える重要性を胸に刻む日にもなった。
市内全域の犠牲者1064人のうち、1003人の芳名が掲げられる鵜住居町の追悼施設「釜石祈りのパーク」では朝から、祈りが続いた。両親を亡くした町内の柏﨑公雄さん(67)は妻幸子さん(66)と訪れ、「いつまでも忘れないよ」と手を合わせた。「未来」と名付けた愛娘は新たな命を生み育てていて、「素晴らしい未来をつなげてほしい」と願う。進学のため町を離れる山﨑成美さん(18)は、世話になった人たちに報告。「震災を風化させたくない。これから先の災害で犠牲になってほしくない。そのための対策を学んで地域の防災・減災に関わっていく」と決めた。
祈りのパークで、犠牲になった人たちに花を手向ける親子
市の追悼式は、今回初めて祈りのパークを会場に行われ、約150人が訪れた。午後2時46分の地震発生時刻に黙とう。式辞で、小野共市長は「この場に立ち、正面の津波高を示すモニュメントを目の当たりにすると断腸の思い」とした上で、「大きな犠牲による教訓を、決して風化させないという決意を新たにする日でもある。二度とあの悲劇を繰り返さないため事実と教訓を語り継ぎ、安心して暮らせるまちづくりに取り組む」と誓った。
釜石市の追悼式は祈りのパークで行われ、多くの人が犠牲者をしのんだ
災害を語り継ぐ、伝承に震災の経験は関係なく、未来を願う思いが防災、減災につながる―。遺族代表で追悼の言葉を述べた佐々木智之さん(41)は、津波で亡くした母妙子さん(当時60歳)、今も見つかっていない姉仁美さん(当時33歳)を思いながら、未来へメッセージを送った。この13年の間に各地で災害が発生し、伝承の重要性を感じる中、長女智桜さん(10)が備えの大切さを伝える語り部活動を始めた。同じように震災の経験がない若い伝承者が徐々に増える今、SNSなどで批判されるのを懸念。だからこそ、当事者として訴える。「みんなの思いは災害で犠牲者を出さないことだ。大震災の教訓を生かし、悲しい思いを背負う人がなくなり、明るい未来があるよう、防災意識が高まるよう、語り継ぐ人たちの活躍を願う」
追悼の言葉を送った佐々木智之さんにとって、3月11日は「いろんな感情が巡る日」。この日は智桜さんが生まれた日でもあるから。大役を終え、父親の顔に戻って笑顔。「ケーキが家に届いていて、このあとは全力で祝います」
続く祈り。刻まれた名にじっと手をあて、思いを伝える姿もあった
式の後も遺族や縁故者らが次々に訪れ、献花して手を合わせた。両親、義姉を亡くした片岸町の小笠原亜弥子さん(44)は、下校中の長女明香里さん(11)、長男輝琉君(9)と立ち寄り、「健やかに育っているから安心して」と伝えた。「母さんが会いに来たよ…元気で、また来年な」。家族思いだった息子の名に触れ、高齢の母親はぎゅっと目をつぶった。
祈りの一日 各所でささげる犠牲者への思い 鎮魂、誓い… 心寄せる人々
日蓮宗の青年僧らが題目を唱えながら釜石市内を歩き、震災犠牲者を慰霊した=11日午前
県内外の日蓮宗寺院の青年僧は釜石市内を行脚。うちわ太鼓を鳴らしながら、題目「南無妙法蓮華経」を唱えて歩き、震災犠牲者の魂を慰めた。同宗派が2015年から沿岸被災地で行っている慰霊法要の一環。関西や北東北の20~40代の僧侶18人が、魚河岸テラスから礼ヶ口町の日高寺まで約5キロを歩いた。岩手県日蓮宗青年会代表の三浦恵導さん(37)=龍王寺(山田町)住職=は「物質的な復興は進んだが、心のケアは十分ではない。私たち僧侶ができることは犠牲者の慰霊と被災地に暮らす方々の安心(あんじん)を達成すること。寄り添っていかねば」と意を強くした。
殉職した消防団員の名が刻まれた顕彰碑には白菊が手向けられた
鈴子広場(鈴子町)にある「殉職消防団員顕彰碑」には、震災で職務遂行中に命を落とした仲間8人の名前が刻まれている。献花式で、坂本晃団長(69)は「もう二度と誰の名も刻むことがないように。それが願いだ。団員の安全を確保した上で、住民の命や生活を守るため、日々の訓練を重ねていく」と力を込めた。
忘れない…竹灯籠でかたどった文字が浮かび上がる青葉通り
大町の青葉通りの一角に浮かび上がる「忘れない」の文字。かたどった約1200個の竹灯籠に明かりがともり、追悼の光が揺らめいた。釜石仏教会(大萱生修明会長、17カ寺)による竹灯籠供養。市東部地区の住民らの思いをくみ、これまで行ってきた祈りのパークから会場を移した。同会の芝﨑恵応・仙寿院住職は「亡くなった人をしのび、教訓を伝えなければ、意味がないんです」と言葉を残した。
「天に届け―」思いを込めた風船を大空に放つ根浜地区の住民ら=11日午後2時46分
13年前、震災の津波が低地の集落を襲い、住民15人が犠牲になった鵜住居町根浜地区。地震発生時刻の午後2時46分―。海抜20メートルの高さに宅地造成された復興団地の津波記念碑前では、集まった住民が海に向かって黙とう。故人や未来へのメッセージを記した風船を空に放った。
「会いたい―」。津波で大槌町役場職員だった次女(当時32)を亡くした前川良子さん(71)。「日々、『生きていたら…』と思う時はある」と娘の笑顔を思い浮かべる。夫と営む民宿を2013年に自力再建。海の仕事もしながら、この地で生きることを選んだ。地区住民とは家族ぐるみの付き合い。「みんなの顔を見るとほっとする」と地域の支えに感謝する。能登半島地震の被災者にも心を寄せ、その痛み、悲しみを自分事として受け止める。「(希望の)明日はある。自分を見失わず生活していってほしい」と願った。
11日の根浜海岸は穏やかな風景が広がった。津波で亡くなった人たちを思い、多くの人が足を運び、祈りをささげた
今も多くの行方不明者が眠る三陸の海―。人々の祈りをたたえた海はこの日、穏やかな波が寄せては返していた。
暗くなった根浜海岸の海上には、今年も「3・11」の舟形あんどんが浮かべられた。鎮魂と未来への希望を明かりに込める「とうほくのこよみのよぶね」。アーティストの日比野克彦さんが12年から出身地岐阜市の仲間と訪れ、釜石市民と製作している。午後7時には鎮魂の花火「白菊」が打ち上げられた。地元実行委が20年から継続。支援の減少で本年休止も検討されたが、能登半島地震発生を受け、クラウドファンディングでの打ち上げを目指した。趣旨に賛同し130人が支援を寄せた。
鎮魂の花火「白菊」と「とうほくのこよみのよぶね」(写真左)。白菊を手がける「嘉瀬煙火工業」の好意で他の花火も打ち上げられた(同右)
ボランティア活動で6年前から同市を訪れている紫波町の女性(56)は震災時、テレビの生中継で津波の襲来を目にした。「何もできない無力感でいっぱいだった」。震災を機に命について考え続ける。大事な人を失った悲しみは計り知れないが、「生かされた命を大事に、少しでも楽しく生きられる人生であってほしい」と夜空を見上げた。