1945(昭和20)年7月14日。釜石市にとって決して忘れることのできない日―。太平洋戦争末期のこの日、同市は米艦隊による本州初の艦砲射撃を受け、多くの尊い命が奪われ、まちは焼け野原と化した。8月9日には米英両艦隊が砲撃。2度の攻撃による死者は782人、全焼家屋は2930戸に及んだ(市調べ)。戦後79年が経過し、体験者も減少していく中、市内ではその記憶を確実に後世につなぎ、非戦の思いを強める取り組みが続く。
釜石小6年生 艦砲射撃を学ぶ 紙芝居、体験者の生の声に「戦争は絶対ダメ」心に刻む
颯・2000のメンバーによる艦砲射撃を伝える紙芝居の上演=2日、釜石小
大渡町の釜石小(五安城正敏校長、児童80人)では2日、6年生(19人)が艦砲射撃の学習を行った。読書サポーター、颯(かぜ)・2000(佐久間良子代表、11人)の4人が来校。体験者が制作した紙芝居の上演、手記の朗読のほか、メンバーが自身の体験を語った。児童らは生まれ育ったまちで実際にあった戦禍を知り、平和な世界の実現を願った。
千田雅恵さん(事務局長)が艦砲射撃について解説。釜石湾に米英の大きな船がやってきて、積んでいる大砲からまちを目がけて5300発以上の砲弾が撃ち込まれたと説明した。「なぜ、釜石は狙われたのか?」。千田さんから問われると、児童から「鉄を多く作っていたから」との声が…。東北唯一の製鉄所があり、日本有数の工業都市だったことで標的にされた。
写真上:釜石が受けた艦砲射撃の被害状況などを教える千田雅恵事務局長、同下:話を聞く釜石小6年生
砲弾の大きさを実感してもらおうと、紙の模型でも説明した。最も大きな直径40センチの16インチ砲は重さ約1トン。多くの着弾で、同校がある一帯は一面焼け野原になってしまった。遠くは中妻、小佐野、小川まで被害が及んだ。機銃掃射でも大勢の人が命を落としたという。
釜石艦砲の紙芝居は、元教員で画家としても活躍した鈴木洋一さん(故人)が自身の体験を伝えようと制作したもの。製鉄所がある鈴子町に住んでいた鈴木さんは、逃げ込んだ防空壕(ごう)で次々に撃ち込まれる砲弾の炸裂音、地響きにおののきながら、腹ばいの姿勢で2時間半も耐え続けたという。放心状態でしばらく動けず、外に出ると直径8メートルものすり鉢状の砲弾跡が…。がれきで足の踏み場もなかったと記している。鈴木さんは「戦争は悲劇。おろかで罪悪です。絶対にやってはいけない。皆さんは平和を願う気持ちを持ち続けてください」と紙芝居を締めている。
故鈴木洋一さんが制作した紙芝居を読み聞かせる佐野順子さん(写真右)
同会メンバーの浅沼和子さんは4歳の時に艦砲射撃を経験した。「命に関わることだったので忘れることができない―」。只越町の自宅では爆風でふすまなどが次々に倒れた。防空頭巾をかぶり、母親と近くの防空壕に走った。「死ぬんじゃないかと思いながら必死に母の後を追って逃げた」という。この日は戦争をテーマにした絵本も読み聞かせた。「戦争に勝ち負けはない。憎しみだけが残る」と浅沼さん。
写真左:学徒動員の体験手記を朗読する佐々木麻貴子さん、同右:自身の艦砲体験を語る浅沼和子さん
佐藤風河さんは「戦争は何もうれしいことはない。人の命を奪うことになるのでやめたほうがいい。釜石から発信し、戦争の危なさを世界中に伝えていくことが大事」とメンバーの話を心に刻んだ。
児童らの様子について、「目線をしっかり向けて聞いていたので何かしら響くものはあったと思う」と千田さん。「艦砲射撃は“どこか遠くであったかわいそうなこと”ではなく、ここ釜石であったこと。ガザやウクライナのことも(戦争が)あって当たり前という意識を持たれるのが怖い。戦争をしないためにどうすればいいか、みんなでよく考えてほしい」と願う。
颯・2000が持参した艦砲射撃の各種資料も見学。さらに学びを深めた
同校が颯・2000のメンバーを招いて釜石艦砲を学ぶのは今年で2年目。五安城(いなぎ)正敏校長は「地域の方に話してもらうことで、より具体的に実感を伴って聞くことができた。地元の地名が出てきたり、いつも朝読書でお世話になっている浅沼さんが話してくれたことで身近さも感じたと思う。ぜひ続けていきたい」と話した。
「銃後(じゅうご)もまた戦場」 戦時中の市民の暮らしにスポット当て郷土資料館が企画展
市郷土資料館で開催中の企画展「銃後のくらし-釜石はどう生きたか-」
鈴子町の市郷土資料館(正木浩二館長)では12日から、戦災企画展「銃後のくらし ―釜石はどう生きたか―」が開かれている。戦地で戦う兵士を支え、幅広い活動で古里防衛に力を尽くした市民の生活にスポットを当てた。厳しい環境下でも「国のため」と衣食住の我慢をいとわず、勤労奉仕に汗を流す人々。全てが戦時色に染まった生活の一端を所蔵資料から垣間見ることができる。
企画展示室には関係する64点の資料が並ぶ。当時の暮らしの解説パネル、衣食住、動員に関わる写真や書類など。開戦当初の1941(昭和16)年、鈴子駅から出征兵士を見送る人々の写真は日本の勢いを感じさせる一方、兵士が着物姿の家族と収まる写真は双方の複雑な心境ものぞかせる。戦時体制を色濃く反映するのは、金属献納運動を伝え、供出を促すパンフレット。寺の釣り鐘も集められている様子が掲載されている。
市民などから寄せられた戦時下の様子が分かる貴重な資料を公開
戦時中はあらゆる物資が不足した。繊維製品も軍需用が優先され、一般向けの衣類は42(昭17)年から配給制に。各家庭の人数に応じて「衣料切符」が配られたが、実際には欲しいものは手に入りにくかったという。食糧難も深刻。釜石では米に海藻を混ぜて炊く“めのこ飯”が有名だが、県は「山菜野草の食べ方と貯え方」という文書も発行し、飢えをしのぐ手立てとしていた。
戦時中も学校教育は続いたが、こちらも戦時色が強いものに。今回初めて公開された釜石商業高校の43(昭18)年の卒業アルバムは写真はもちろん、校歌や教諭からの送る言葉も戦争を意識した内容で、時代がうかがえる。戦況が悪化し本土決戦が叫ばれるようになると、児童生徒も勤労学徒として工場などに動員された。釜石高等女学校の生徒は小銃発射訓練にも励み、その様子が写真に残されている。企画展では訓練用の木銃も見ることができる。
昭和18年の釜石商業高校の卒業アルバムは本展が初公開
戦力増強のため、市民は各方面に動員された。女性も防空演習や銃の訓練に励んだ
雑誌などの出版物も戦時色に染まった
出征以外の男性は警備、消防、対空監視など釜石防衛の任務に就き、成年女性は大日本婦人会の会員として出征兵士や職場の激励、慰問など幅広い活動で戦時下の守りを支えた。当時の地区組織、隣組は防空演習を盛んに行った。
佐々木寿館長補佐は「子どもから高齢者まで生活全てが戦争に向かっていた時代。今の自由さとは全然違う暮らしをしていたことにも目を向けてもらえれば」と話す。来年は戦後80年という大きな節目を迎える。「釜石艦砲をはじめ戦争体験者のいる(いた)家庭にはまだまだ眠っている資料があると思われる。家の整理などで発見したら、ぜひお寄せいただきたい」と呼び掛ける。
本企画展は9月8日まで開催。毎週火曜日休館。開館時間は午前9時半~午後4時半(最終入館:午後4時)。