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港に咲く大輪! 「釜石納涼花火」2年ぶり開催 迫力の水中花火に観客大喜び

釜石港を会場にした「釜石納涼花火2025」=11日

釜石港を会場にした「釜石納涼花火2025」=11日

 
 釜石市の夏を盛り上げる「釜石納涼花火2025」(市、釜石観光物産協会主催)は11日夜、釜石港で開かれた。東日本大震災犠牲者の慰霊、まちの活性化を願う花火、約3千発が夜空や海上を彩った。港周辺に設けられた4つの観覧場所には、市民や帰省客、観光客ら約1万4千人が繰り出し、色とりどりの光の競演を楽しんだ。昨夏の同花火は台風の接近により中止されたため、2年ぶりの開催となった。
 
 震災復興支援で同市とつながる秋田県大仙市の「大曲の花火協同組合」が打ち上げを担当した。午後7時、震災犠牲者を追悼する「白菊」(タイトル:鎮魂と平和への祈り)を皮切りにスタート。「釜石湾に希望のファンファーレ」「夕映の釜石湾」「光る汗と笑顔 釜石よいさ」など、ご当地ならではのタイトルが付けられたスターマイン、水中花火のほか、3~8号玉の各連発花火など31のプログラムで楽しませた。
 
震災犠牲者を思い、打ち上げられた「白菊」

震災犠牲者を思い、打ち上げられた「白菊」

 
港を彩る色や形もさまざまな花火が観客を魅了

港を彩る色や形もさまざまな花火が観客を魅了

 
花火は釜石港内南防波堤から打ち上げ。魚市場会場から臨む花火風景

花火は釜石港内南防波堤から打ち上げ。魚市場会場から臨む花火風景

 
 埼玉県から帰省した秋穂亜佳里さん(34)は親族11人で魚市場会場から観覧。2年ぶりの釜石花火に「見られるのはやはりうれしいですよね。都内とかだとこんなに近くで、しかもシートを敷いてゆっくり座って見ることができる花火はなかなかないので」と笑顔満開。「お盆中は父方の祖母の家に行ったり、海に行ったりしてみんなで楽しみたい」と話し、古里での休暇に気分を高揚させた。
 
 盛岡市の髙橋弘幸さん(62)、尚子さん(61)夫妻は「一番前で見たくて」と、午後1時ごろから魚市場会場の岸壁で待機。釜石の花火は「目の前で広がる水中花火が圧巻」と、ここ数年、毎年足を運ぶ。花火フリークで、大曲の花火をはじめ、各地の花火大会に出向くのが夏の楽しみ。「昨日は宮古の花火を見て、今日は釜石。花火を見ると胸が躍る。(何かと忙しくなる)お盆の前にやってくれるのもいいですね」と喜んだ。
 
釜石の花火大会といえば…「水中花火」。小型船が移動しながら仕掛ける

釜石の花火大会といえば…「水中花火」。小型船が移動しながら仕掛ける

 
魚市場2階の展望テラスは「特別協賛席」として一般に有料開放。午後6時からの数量限定販売に長蛇の列ができた

魚市場2階の展望テラスは「特別協賛席」として一般に有料開放。午後6時からの数量限定販売に長蛇の列ができた

 
魚市場会場には開始1時間以上前から多くの客が訪れた

魚市場会場には開始1時間以上前から多くの客が訪れた

 
 釜石の夏の花火打ち上げは震災後2年間、「LIGHT UP NIPPON(ライトアップ日本)」の被災地支援で実施。その後、港湾復旧工事のため休止し、2015年に地元主催で再開された。20年から2年間は新型コロナ感染症の影響で再び休止を余儀なくされ、22年から通常開催となった。震災後しばらくは約1千発の打ち上げだったが、今は震災前と同様の約3千発となっている。震災後、主催者は安全上の観点から港周辺の観覧場所を指定。4カ所となった22年以降の人出は1万人以上で推移し、今年は最多となった。
 
約1時間にわたり約3千発を打ち上げ。プログラムは事前にWeb上で公開。当日も会場アナウンスで紹介した

約1時間にわたり約3千発を打ち上げ。プログラムは事前にWeb上で公開。当日も会場アナウンスで紹介した

 
昨年9月の「釜石絆の日」うのスタスペシャルライブに出演したスターダスト☆レビューの名曲にちなんだ花火「あなたに逢いたくて~木蘭の涙~」

昨年9月の「釜石絆の日」うのスタスペシャルライブに出演したスターダスト☆レビューの名曲にちなんだ花火「あなたに逢いたくて~木蘭の涙~」

 
花火打ち上げ終了後、ライトを点灯したスマホを振って花火師に感謝を伝える観客

花火打ち上げ終了後、ライトを点灯したスマホを振って花火師に感謝を伝える観客

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「橋上市場!?」かつての釜石風景 軌跡たどる写真展 懐かしむ声、思い出を共有

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サン・フィッシュ釜石で開催中の写真展「橋上市場の軌跡」

 
 かつて、釜石市には全国でただ一つ、橋の上に組み込まれた形の名物市場があった。「釜石の橋上市場」。市中心部を流れる甲子川に架かる旧大渡橋に並行する形の橋上マーケットは、市のシンボルの一つとして市民や観光客に親しまれた。橋の老朽化でJR釜石駅前に移転し20年余り。その流れをつなぐ「駅前橋上市場サン・フィッシュ釜石」(同市鈴子町)で、当時の様子を紹介する写真展が開かれている。
 
 橋上市場は1958年に露天市を原型に誕生。長さ約110メートル、幅約13メートルの場内には魚屋や八百屋はもちろん、衣料品や雑貨、土産物などを扱う店舗、理髪店、食堂もあった。その数、約50店舗。「市民の台所」であり、生活を支える場所でもあったが、河川法上の問題や大渡橋の架け替えに伴い、2003年1月に閉店。45年の歴史に幕を下ろした。
 
 橋と並行し独特の雰囲気をかもす建物、物や人であふれる場内、笑顔の店主たち―。「釜石橋上市場の軌跡」とタイトルが付いた写真展には、当時のにぎわいを写した約60点が並ぶ。開設時の様子や河川法上の問題などで移転・撤去を余儀なくされた経緯、閉店後の事業者らの再スタートについて年表でも紹介する。
 
写真と年表で橋上市場の歴史を振り返る展示

写真と年表で橋上市場の歴史を振り返る展示

 
橋上市場の独特な雰囲気を感じられる写真がずらり

橋上市場の独特な雰囲気を感じられる写真がずらり

 
 形を変えながらも橋上市場の歴史を受け継ぐサン・フィッシュは03年5月に開業。橋上市場で営業していた店舗のうち15店が入居した。ほか一部の事業者は大渡町にあった空き店舗を活用した「いきがい市場」で営業したが、23年の東日本大震災で流失した。サン・フィッシュは23年目を迎え、現在は海産物などを販売する組合員3店と、食堂やスナックなどテナント10店が営業する。
 
 橋上市場やサン・フィッシュに親しみを持ってもらおうと、施設を運営する釜石駅前商業協同組合(八幡雪夫理事長)が企画。当初、市民らから写真を募る方式でスタートしたものの、震災で写真を失ったり、そもそも当時はカメラを持つ人も少ないなどの理由もあってか集まらなかった。そんな時に、市が写真提供に手を挙げたほか、07年に写真集「釜石橋上市場 追憶の光景」を出版した地元出身の写真家佐々木貴範さんの協力を得、さらに地元酒造会社の浜千鳥の仲立ちで、1人が写真を寄せた。
 
開設当時の街のにぎわい、活気を伝える写真を展示する

開設当時の街のにぎわい、活気を伝える写真を展示する

 
最後の営業日となった橋上市場の様子を捉えた写真も並ぶ

最後の営業日となった橋上市場の様子を捉えた写真も並ぶ

 
 発案したのは組合事務局の30代職員。橋上市場のあった当時は小学生で、親戚が働いていたことからイクラなど海産物をもらったことなどを記憶する。写真展に向け準備する中で、当時を知る組合員や理事から話を聞き、思いに触れ、「橋上市場は特別なものだったのでは」と感じたという。知らない世代が増えていることもあり、まちの歴史を知ってもらう機会に、そして記憶する人たちには懐かしみ、世代を超えた会話のきっかけになればと、帰省客が多くなるお盆の時期に合わせて催した。
 
買い物に訪れた客や帰省した人らが展示に足を止めている

買い物に訪れた客や帰省した人らが展示に足を止めている

 
 「懐かしい」と目を細めていたのは、埼玉県草加市の渡辺律子さん(75)。釜石出身で高校時代まで過ごし、先祖の墓参りのため毎年この時期に訪れているという。橋上市場の外観を写した一枚を指さしながら、孫らに今はなき古里の風景を伝えていた。
 
「孫たちに古里のことを伝えられた」と話す渡辺律子さん(左)

「孫たちに古里のことを伝えられた」と話す渡辺律子さん(左)

 
 「育った当時、(橋上市場は)普通にあるものだったけど、のちにイタリアと釜石にしかないものだと知った。珍しいものなのだと記憶したのを思い出す。にぎやかで、活気がある街だった」と渡辺さん。時を経た街の様子に寂しさを感じつつ、懐かしい顔や味との再会を楽しみにしているらしく、「釜石に来ると、高校生に戻ったかのように若返る。元気なうちは来たい」と柔らかな笑みを浮かべた。
 
 同じように懐かしむのは、施設内で「七兵衛屋商店」を営む後藤さちえさん(65)。橋上市場から移転した店舗の一つで、「あの頃は本当ににぎやかだった。ちょうど子育て中で大変だったはずだが、苦労を考える暇もなく働いた。立ち止まっていられる状況ではなく、ただ突っ走っていた」と明るく笑う。現在、組合の理事を務め、展示の準備にも積極的に関わった。
 
 海産物や刺身を店頭に並べ、客を迎え続けている後藤さんは、写真展でうれしい対面があった。掲示された一枚に、7年前に亡くなった夫の英輔さん(享年65)の姿を見つけた。「橋上市場にいる自分たちを撮ることはなかったから、こういう写真が残っているのは感激。こういう風に、写真を見て『あ、こんな人いたね』とか話のタネになれば。皆さんの心の中がにぎわったらいい」とうなずいた。
 
亡夫との思いがけない再会に頬を緩める後藤さちえさん

亡夫との思いがけない再会に頬を緩める後藤さちえさん

 
 展示会場には「想い出箱」が置いてある。橋上市場でのエピソードや写真展の感想などを自由に書いてもらおうと、用紙も用意。すでに投書した人もいて、一部が紹介されている。「釜石に来たときは必ず橋上市場に寄っていた。いつも人であふれ、たくさんのお店があって楽しい、独特な、不思議な空間だった」「かまだんごを買うのが好きだった」。足を止めた人たちが掘り起こした記憶をつづっている。
 
「想い出箱」に寄せられたメッセージを掲示して記憶を共有

「想い出箱」に寄せられたメッセージを掲示して記憶を共有

 
 写真展は31日まで。施設の営業時間内(午前7時~午後4時)に見ることができる。組合事務局では「これから先のことを考えることも大事だが、昔のことに思いをはせることがあってもいいと思う。釜石を盛り上げた人たちの存在、釜石の商売人のあたたかい人柄を感じてほしい」と期待する。
 
 この企画は、空きスペースを有効活用することで、来場者の滞在時間を長くすることも狙い。「テナント利用、出店者を募集中。短期、チャレンジショップだったり、フリーマーケットや作品展も歓迎」と呼びかける。

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夜市も、盆踊りも!超にぎやか、楽しく同時初開催 釜石の街なかに「おいでんせ~」

釜石市の中心部ににぎわいをもらたした夜市と超盆踊り

釜石市の中心部ににぎわいをもらたした夜市と超盆踊り

 
 釜石市の中心街で10日、市民が楽しめる2つのイベントが同時開催された。地元企業が実行委を組織して企画した「かまいし夜市おいでんせ」と、イオンタウン釜石が催した市民参加型の「超盆踊り」。ともに初開催で、「街中ににぎわいを」「夜のまちを盛り上げよう」との共通の思いが重なった。「初めまして、かんぱーい!」「やっぱり、人が集まるっていいよね」。家族連れや帰省客らが多彩な出店、ステージも楽しみつつ、古里の夏を満喫した。
 

夜の街に乾杯!食や酒に舌鼓

 
ビールを片手に談笑する来場者と出店者

ビールを片手に談笑する来場者と出店者

 
 夜市は同市大町が会場。市民ホールTETTO前広場には市内の飲食店が唐揚げや焼き鳥などを提供する「屋台村」や、岩手県内の酒造会社やブルワリーが連なる「カンパイガーデン」がお目見えした。合わせて約20の味わいが楽しめるとあって、客が次々と来場。浜焼きといった地元の味をさかなに酒やビールを飲みつつ談笑する光景が会場内のあちらこちらで見られた。
 
飲食や虎舞などを楽しむ人でにぎわう「かまいし夜市」

飲食や虎舞などを楽しむ人でにぎわう「かまいし夜市」

 
 隣接するイオンタウン釜石前の大町広場にはステージが設けられ、2つの広場を結ぶ道路は歩行者天国となった。郷土芸能の虎舞や吹奏楽、ヒップホップダンスなどのジャンル豊かなパフォーマンスが繰り広げられた。
 
 「思いがけない出会いがいいね」と笑ったのは礼ケ口町の菅野愛子さん(78)。相席になった女性や、隣のテーブルに座っていた若者らと「乾杯ー!」と声を合わせ盛り上がった。初めての試みを歓迎。「面白くて長居してしまった。1回と言わず、回を重ねてほしい」と期待した。
 
「初めまして」「かんぱーい!」。交流が生まれる

「初めまして」「かんぱーい!」。交流が生まれる

 
 人口減や東日本大震災、コロナ禍の影響などで人通りが少なくなった繁華街ににぎわいをもたらす新たなイベントを模索し実現。実行委員長の小澤伸之助さん(48)は「形にこだわらす、やってみた結果、多くの人が喜んでくれた」と頬を緩めた。
 
夜市の開場は午後1時。明るい中でも次々と客が来場

夜市の開場は午後1時。明るい中でも次々と客が来場

 
実行委の仲間と笑顔を重ねる小澤伸之助さん(中)

実行委の仲間と笑顔を重ねる小澤伸之助さん(中)

 
 大町で育った小澤さん。「ここ(大町周辺)は釜石の中心部だけど、じゃなくなった。さまざまな要因で街の形が崩れている」と感じていた。一方で「新しく創り出す、今がそのタイミング」と、前向きな思考も。同じような気持ちを抱く事業者や仲間の有志らが出店し、新たな試行の場になった。釜石産鶏肉を使った台湾風唐揚げ「大鶏排(ダージーパイ)」がその一つ。「釜石ならでは、新名物になり得るものをクリエイトする動きだ」と歓迎した。
 
 今回は「食と音で人をつなぎ、街を創る」をコンセプトとしたが、小澤さんは「もっとやりたいことがある」と継続を視野に入れる。イベント名にした「おいでんせ」は市民に親しみ深い釜石小唄の一節にある、人を迎えるときの言葉。「古き良き釜石の活気を思い起こさせてくれる。多くの人が集い、『おいでんせ』と心でつながれることを考えて実行していきたい」と思い描く。
 

大人も子どもも輪になり一体感

 
大勢の市民らが参加したイオンタウン釜石の「超盆踊り」

大勢の市民らが参加したイオンタウン釜石の「超盆踊り」

 
 「おいでんせ」つながりで踊りの輪が広がったのは、イオンタウン釜石の「超盆踊り」。同市港町の第2駐車場の一角にシンボルのやぐらがお目見えし、日暮れ前には子どもたちが輪をつくり、「マツケンサンバⅡ」などで元気よく踊った。
 
盆踊りパレードを思い思いに楽しむ子どもたち

盆踊りパレードを思い思いに楽しむ子どもたち

 
 夜が更けると、親子連れやお年寄りら老若男女が踊りを楽しむ“超”本番がスタート。夏を彩る祭り「釜石よいさ」のおはやし隊有志が太鼓で盛り上げ、よいさ小町が踊りを先導した。「炭坑節」といった盆踊りの定番曲のほか、「釜石小唄」でも踊りを満喫。参加した人たちになじみがない「ドンパン節」では、進行役の佐野よりこさん(釜石出身のフリーアナウンサー・民謡歌手)が踊り方を教えたりした。
 
進行役の佐野よりこさん(右)、おはやし隊が盛り上げる

進行役の佐野よりこさん(右)、おはやし隊が盛り上げる

 
やぐらを囲むように輪をつくって踊る参加者

やぐらを囲むように輪をつくって踊る参加者

 
 里帰り中の子どもや孫ら11人で夏の夜を楽しんだ唐丹町の尾形康民さん(62)は「震災の津波後は地域のイベントも少なくなり、集まる機会も減った。にぎやかなのは地域が活気づくし、こういう場で(孫たちに)ねだられるのがやっぱりうれしいよな」と目尻を下げ、「来年も」と望んだ。
 
 よいさ小町で大学生の小笠原のゑさん(19)は帰省中に参加。「踊る楽しさを伝えられたら」と笑顔で群舞を引っ張り、9月23日に釜石鵜住居復興スタジアムで開催予定のよいさPRに一役買った。
 
大人も子どもも一緒に踊りの輪をつくって交流を深めた

大人も子どもも一緒に踊りの輪をつくって交流を深めた

 
 市中心部を盛り上げようと企画。「同じ思いだ」と、夜市実行委と情報を共有しながら準備を進めた。イオンタウン釜石の大沼秀璽モールマネジャーは「多くの方が一緒に踊って『超』楽しんでいただけたようだ」と、うれしそうに会場を見渡した。

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震災復興後押し15年 「唐丹ゆめあかり」惜しまれつつ最終回 住民力結集の打ち上げ花火に万感

最後の開催となった「唐丹ゆめあかり」=9日、小白浜漁港

最後の開催となった「唐丹ゆめあかり」=9日、小白浜漁港

 
 釜石市唐丹町で東日本大震災以降、毎年夏に開催してきた鎮魂と復興を祈るイベント「唐丹ゆめあかり」が最終回を迎えた。津波で大きな被害を受けた地域に明日への希望と活力をもたらした15年―。住民らは終了を惜しみつつも、復興への歩みを支えた地域イベントに感謝し、新たなまちづくりに思いを新たにした。
 
 同イベントは唐丹駐在所連絡協議会(佐々木孝会長)、小白浜町内会(佐々木啓二会長)を中心に組織する実行委が主催。震災があった2011年に、ペットボトルキャンドルを防潮堤などの海岸エリアにともし、犠牲者の鎮魂と復興への祈りを込める場として始まった。13年には、東北の被災地で花火を打ち上げるプロジェクト「LIGHT UP NIPPON(ライトアップ日本)とのコラボが実現。市内外の支援者の協力で、郷土芸能の披露や縁日広場なども開催する一大イベントに発展した。
 
 花火の打ち上げは16年から、地域住民や地元企業、団体などからの協賛金で行われてきた。新型コロナ感染症拡大を考慮し、20年は実行委がイベント中止を決めたが、打ち上げに協力してきた花火業者、芳賀火工(仙台市)が支援を申し入れ、地域限定の“サプライズ花火”として実施。住民の要望を受け、翌21年以降も地域から寄せられる協賛金を原資に打ち上げを継続してきたが、社会情勢の変化で資金確保が難しくなってきたため、実行委は15年目となる本年を区切りに終了を決断した。
 
これまでの経緯を話し、協力に感謝する佐々木啓二実行委員長(写真左上)。会場には幅広い世代が集まった

これまでの経緯を話し、協力に感謝する佐々木啓二実行委員長(写真左上)。会場には幅広い世代が集まった

 
地域内外から訪れた家族連れなどが夏の夕べを楽しんだ

地域内外から訪れた家族連れなどが夏の夕べを楽しんだ

 
 9日、イベント会場となった小白浜漁港には夕方から、キッチンカーやアート作品体験のブースが並んだ。辺りが暗くなり始めると、地域住民や帰省客などが大勢集まった。花火の打ち上げを前に、唐丹中(金野学校長、生徒27人)の生徒有志19人が、学校で取り組む「唐中ソーラン」を披露。元気いっぱいの踊りで、地域の盛り上げに一役買った。同町本郷の「桜舞太鼓」を伝承する鼓舞櫻会(佐藤勇人会長)は手踊りも交え、華やかなパフォーマンスを見せた。市内外のイベントに引っ張りだこの同太鼓演奏に盛んな拍手が送られた。
 
唐丹中の生徒有志が「唐中ソーラン」を披露。アンコールにも応え、2回踊った

唐丹中の生徒有志が「唐中ソーラン」を披露。アンコールにも応え、2回踊った

 
生徒らはそろいの長ばんてんを着て、躍動感あふれる踊りを見せた

生徒らはそろいの長ばんてんを着て、躍動感あふれる踊りを見せた

 
唐丹町本郷を代表する郷土芸能「桜舞太鼓」は女性陣の手踊りとコラボ

唐丹町本郷を代表する郷土芸能「桜舞太鼓」は女性陣の手踊りとコラボ

 
 唐丹ソーランを率いた千葉柊瑛さん(3年)は「ミスとかなく、声も出していい踊りができた」と満足げ。震災後に生まれ、幼いころからまちの復興を見ながら育った。同イベントも毎年楽しみにしてきたが、「今年で終わると聞いて悲しい。地域の盛り上げや交流になる祭りだったので…」。次代の唐丹を担う立場として、「今よりも活気づいて楽しく過ごせるまちにしたい」と思いを込めた。
 
 フィナーレを飾る打ち上げ花火は、これまでで最多の約800発。今年は町内外の149人から104万4千円の協賛金が寄せられ、繰越金と合わせ費用に充てた。集まった人たちは震災後の15年に思いをはせながら、夜空を焦がす色とりどりの光を見つめた。
 
唐丹の夏の夜空を彩った打ち上げ花火。震災犠牲者を追悼し、冥福を祈った

唐丹の夏の夜空を彩った打ち上げ花火。震災犠牲者を追悼し、冥福を祈った

 
花火は北側防波堤から打ち上げられた。“真ん丸お月さま”とも競演(写真左)

花火は北側防波堤から打ち上げられた。“真ん丸お月さま”とも競演(写真左)

 
 同市平田在住の大和田聡子さん(44)は震災時、唐丹の実家に暮らしていた。長女を身ごもっており、自宅裏の国道に駆け上がり、津波の難を逃れた。守られた命は14歳に…。「この子がいたから(2人とも)助かったようなもの」と当時を振り返った。被災した実家は再建され、両親が暮らす。この日は親子5人で帰省し、3世代で唐丹の復興花火を見納め。15年続いた古里のイベントに「唐丹の結束力を感じる。終わるのは残念だが、また、こうしてみんなが集まれるような場があれば」と願った。
 
 同町本郷出身、在住の新沼みどりさん(41)は「震災後、子どもたちは地元で楽しめる場があまりなかったので、(イベント開催は)ありがたかった。被災して他地域に移住した人との再会の機会にもなっていた」と感謝。本郷地区は子育て世代の人口流出が顕著で、「娘たちが大きくなった時が心配。少子化で学校統合の話もある。自分も育った母校がなくなっていくのは寂しい」と地域の未来を案じた。
 
唐中ソーランにスマホカメラを向ける人も多数。思い出をしっかり心に刻んだ

唐中ソーランにスマホカメラを向ける人も多数。思い出をしっかり心に刻んだ

 
 佐々木啓二実行委員長(81、小白浜町内会長)は「地域の皆さんの『続けてほしい』との思いが強く、ここまで継続できた。復興に向かう中で、住民の心の支えになってきたのは確か。夏の楽しみの一つではあったが、一応の区切りとした。『また、やりたい』という声が出てくるようであれば、次の若い世代の判断に委ねたい」と話した。

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艦砲射撃から80年 釜石で追悼式 語りつなぐ体験者の記憶、平和の尊さ 次世代へ

祭壇に花を手向け、祈りをささげる参列者

祭壇に花を手向け、祈りをささげる参列者

 
 釜石市は8月9日、同市大町の市民ホールTETTOで戦没者追悼・平和祈念式を行い、遺族や市内の中学生ら約150人が犠牲者を悼んだ。太平洋戦争終結間際の1945(昭和20)年に釜石が2度目の艦砲射撃を受けたこの日、その戦禍を伝える体験者の手記が朗読された。「どこもかしこも火の海。……何もできない惨憺(さんたん)たるものだった」。80年前のまちの記憶に触れた参列者は戦争の惨禍を繰り返さず、平和の尊さを次の世代につなぐ思いを深めた。
 
祈りの歌声が響いた釜石戦没者追悼・平和祈念式

祈りの歌声が響いた釜石戦没者追悼・平和祈念式

 
 黙とう後、小野共市長が「7月14日と8月9日は決して忘れてはならない日。戦禍が繰り返されることのないよう、恒久平和の確立へ努力することが、国内で唯一2度の艦砲射撃を受けた当市に課せられた使命だ」と式辞を述べた。
 
 市遺族連合会の佐々木郁子会長(82)=同市平田=が追悼のことば。父が出征中に病死し、「父の記憶を持たないままも、父の背中を追い求めて生きてきた。平和な世界に生きることを願いながら、散っていた方々のことを忘れてはならない」と切なる願いを込める。戦後80年となった今、不穏な空気に包まれた世界情勢を危惧。「細くなった記憶の糸をたぐり寄せ、語りつないでいく」と誓った。
 
 読書サポーター「颯(かぜ)・2000」メンバーの佐久間良子さん(69)=同市唐丹町=は、釜石艦砲射撃の体験談などをつづった同人誌「花貌(かぼう)」を朗読した。読んだのは、故和田乙子さんの手記「学徒動員の想い出」より「地獄の七月十四日」。まちを襲った1度目の砲撃の惨状を伝える。
 
手記を朗読し艦砲射撃を伝える佐久間良子さん

手記を朗読し艦砲射撃を伝える佐久間良子さん

 
 避難先のトンネルの中にも響いた「耳も腹も胸もつんさぐ」砲撃のごう音、外に出て目にした火の海と化したまち。「十五の我々にはどうすることも出来ない。ただ泣くだけだった」。そんな地獄の道を泣きながら越え、自宅に生還した「あの日を永遠に忘れない」。
 
 当時、和田さんと行動した佐久間さんの母・前川イツ子さん(95)=大槌町吉里吉里=の経験も紹介した。火の海を歩いていたら長靴が熱で溶けてやけどした、まちの至る所に犠牲者が横たわっていた…。母から聞いた話を静かに語り、「命をつないでくれてありがとう」と締めくくった。
 
 市内の合唱グループ「翳(かげ)った太陽を歌う会」が釜石艦砲、広島・長崎への原爆投下を題材にした歌などの4曲を献唱。参列者は献花台に白菊を手向け、戦争犠牲者の冥福を祈った。
 
戦没者らを悼み、献花。静かに祈り手を合わせた

戦没者らを悼み、献花。静かに祈り手を合わせた

 
 平和・防災学習相互交流事業の一環で青森市と釜石市の中学生計20人も参列。釜石中1年の白野美佳さんは「戦争をしないという選択をするのが私たちの使命であり、責任。戦争で失われた命に敬意を込め、平和の尊さを次の世代へと伝えていく」と受け止めた。
 
平和への誓いを胸に献花する釜石市と青森市の中学生

平和への誓いを胸に献花する釜石市と青森市の中学生

 
 式には前川さんも足を運んだ。友人と自分の体験を伝えてくれた娘に感激した様子で、「80年前を思い出したら、何とも言えない。生かしてもらってよかった。ただ元気でいつまでも…。どこの国も戦争がない世の中になってほしい」と願った。
 
手記を朗読した佐久間さん(左)と母の前川イツ子さん

手記を朗読した佐久間さん(左)と母の前川イツ子さん

 
 「つらい、怖い経験をしながらも生き抜いた和田さんや母たちのためにも艦砲射撃や戦争の悲惨さを伝える活動を続けていこう」と思いを新たにする佐久間さん。市内の小中学校や図書館などで釜石艦砲の体験者が制作した紙芝居などを読み聞かせしており、「子どもたちが受け止め、伝えていく人になってもらえたらうれしい」と期待していた。

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夏休みの宿題 快適環境で一気に進めちゃおう! 帰りの会には楽しいゲームも

市民ホールTETTOギャラリーで夏休みの宿題に励む小学生ら=2日

市民ホールTETTOギャラリーで夏休みの宿題に励む小学生ら=2日

 
 夏休み中の小学生を対象としたイベント「市内いっせいしゅくだいの日」は2日、釜石市大町の市民ホールTETTOと情報交流センターを会場に開かれた。長期休みで顔を合わせる機会が減っている子ども、親同士のコミュニケーションの場として、同センターが初めて企画。子どもたちは涼しい環境で宿題に取り組み、合間には楽しいゲームで交流した。子どもたちが勉強に励む間、親たちは日本の公立小学校を題材にした教育映画を鑑賞した。
 
 3年生以下と4年生以上の2つのグループに分けて時間割を設定。朝の会の後、子どもたちがそれぞれの“教室”で学習を開始した。1コマ40分で、各自持ち寄った夏休みの宿題に取り組んだ。算数や国語など学校から課題として出されているドリルの問題を解き進めた。
 
空調設備の整った快適空間が子どもたちの学習を後押し

空調設備の整った快適空間が子どもたちの学習を後押し

 
40分間しっかり勉強した後は「スイカタイム」。ひと息入れて2時間目に備える

40分間しっかり勉強した後は「スイカタイム」。ひと息入れて2時間目に備える

 
 1時間目と2時間目の間の中休みには、冷やしたスイカをお振る舞い。頭も体もリフレッシュした後、後半の40分でさらに学習を進めた。帰りの会では勉強を頑張ったご褒美に、菓子がもらえるゲームを実施。水の入ったペットボトルで2色の絵の具を混ぜると何色になるかを当てるもので、実験的要素を含んだ楽しいゲームに子どもたちが歓声を上げた。
 
「2色の絵の具を水に入れて混ぜると何色に?」色当てゲームで盛り上がる

「2色の絵の具を水に入れて混ぜると何色に?」色当てゲームで盛り上がる

 
「やったー!」正解した子どもたちは跳びはねて大喜び。景品は人気菓子の「じゃがりこ」

「やったー!」正解した子どもたちは跳びはねて大喜び。景品は人気菓子の「じゃがりこ」

 
 川村奏音さん(小3)は「夏休みの宿題は半分ぐらい終わった。今日はこども園の時に一緒だった友達とも会えて楽しい」とにっこり。この日は偶然にも9歳の誕生日と重なり、「お菓子もいっぱいもらったし、いい思い出になった」と喜んだ。
 
 長期休みの学習は子どもが自分で計画を立てて進めなければならないため、その進み具合は親も気になるところ。さまざまな誘惑がない環境で少しでも宿題がはかどれば、親としても安心できる。イベントを発案した同センター指定管理者の釜石まちづくり会社、下村達志事業部長は「長期休みの間、子どもが1日をどう過ごしているのか、親同士が情報交換できるのも大きい。今後は夏、冬両休みでの開催とし、勉強後のお楽しみ企画も充実させながら、認知度を高めていければ」と話した。

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戦争の記憶を未来に 戦後80年 釜石からのメッセージ「世代を超え、伝え続ける」

戦争の記憶を語り継ぐ催し「戦後80年 釜石と戦災」

戦争の記憶を語り継ぐ催し「戦後80年 釜石と戦災」

 
 太平洋戦争末期、岩手県釜石市を5300発超の砲弾が襲い、800人近くが犠牲になったとされる米英連合軍の2度の艦砲射撃から80年。戦火を経験した人は高齢となり、年々、戦時中の体験談を聞くのが難しくなってきている。そのような状況を見据え、まちに残された戦争の記憶をつなごうと、「戦後80年 釜石と戦災~未来に伝えるために~」(同市主催)が3日、大町の市民ホールTETTOで開かれた。講演会やパネル討論などを通じて世代を超えた記憶の継承、平和の大切さを考えた。
 
 市民ら約150人が参加。講演会の冒頭、小野共市長が「国内で唯一2度にわたる艦砲射撃を受けた釜石には、戦争の悲惨さや愚かさ、平和の尊さを訴え、伝えていく役割がある。戦災からの復興を推し進めてきた先人たちの足跡を振り返りながら、戦争のない平和な世の中を目指す」とあいさつした。
 
 講演では、市内在住の佐野睦子さん(94)が「わたしの戦争時代の思い出」と題して体験を伝えた。釜石は終戦直前の1945(昭和20)年7月14日と8月9日、米英連合軍などの艦隊から艦砲射撃を受けた。製鉄所があることで敵の攻撃を受ける可能性があると考えられ、佐野さんはその年の4月に故郷の釜石から現在の遠野市にあった女学校へ疎開していた。
 
「若さと忍耐で過ごした戦争時代」を振り返る佐野睦子さん

「若さと忍耐で過ごした戦争時代」を振り返る佐野睦子さん

 
 「ドシーンドシーン」。砲撃による地鳴りは疎開先でもはっきり聞こえた。2度目の砲撃の直後に疎開した同級生らから故郷の過酷な現状を聞いた。「戦争の恐ろしさを深く肝に銘じた日だった」。
  
 釜石には捕虜収容所があり、隊列を組み鉱山での採掘などに向かう姿をよく見た。終戦後、その捕虜が口笛を吹きながら街を歩き回っている光景を見て、日本の敗戦を思い知った。
 
 しばらくして釜石に戻った。「まちは地獄そのもの。この世のものと思われない悲惨さにただ立ち尽くした」。一面焼け野原。まちのシンボルだった製鉄所の5本の大煙突は砲撃で無残に折れ曲がっていた。釜石駅周辺には爆弾でできた大きな穴がいくつもあった。「もっと早く終わっていたら」。涙が止まらなかった。
 
 「戦後80年の日本はなんと豊かでしょう。お腹いっぱい白いご飯を食べたいと切実に願う中で終戦、敗戦の時を見つめた私も94歳」と佐野さん。思い出を語る同級生は少なくなり、残された数ある思い出を語り尽くせていないとしつつ、「こんな時代もあったということを少しでも分かっていただけたら。平和な毎日のありがたさ、尊さを考えてほしいです」と、客席に語りかけた。
 
 戦時中、釜石の捕虜収容所の所長を務めた故稲木誠さんの孫で、ニューズウィーク日本版記者の小暮聡子さん(44)も登壇。「戦争の記憶~未来への継承~」と題し、稲木さんが残した手記を元に記者として捕虜を訪ね、たどった戦争の記憶を語った。
 
「戦争の記憶を大切に受け取り、伝えていく」と話す小暮聡子さん

「戦争の記憶を大切に受け取り、伝えていく」と話す小暮聡子さん

 
 釜石には、釜石鉱山そばの現甲子町天洞の「大橋」と、現港町の矢ノ浦橋のたもとの「釜石」の2つの捕虜収容所があり、終戦時には計約750人が収容されていた。終戦直前の艦砲射撃では32人が犠牲になった。
 
 「あの時の凄惨(せいさん)な光景と死のうめき声を忘れることができない」。そう書き残した稲木さん。戦後、捕虜を死なせたBC級戦犯として東京の巣鴨プリズンに5年半拘禁された。
 
 収容所の管理、捕虜の扱いに最善を尽くしたと考えていた稲木さんは、戦犯とされたことに葛藤、苦悩し続けた。一方で、「祖父の心が救われる出来事があった」と小暮さん。元捕虜と文通して友情を育んだことを紹介した。
 
 「手記を書き続けるのは地獄の苦しみ……戦争を知らない若者たちへの遺書にする」。そうした祖父の手記を高校生の頃に目にした小暮さんは「戦争の記憶は祖父を苦しめたのに…なぜつらい記憶を伝えようと思ったの、何を伝えたかったの」と問いかけながら、記憶をたどり続ける。
 
 元捕虜や釜石艦砲の体験者、元兵士、遺族らに話を聞く中で、共通して感じるのは「戦争を2度と起こしてはならないという強い思いだ」と小暮さん。「戦争の非人道性を生々しく語れば語るほど、語る人の負担は大きい。それでも後世のため、私たちのために話してくれるからこそ、戦争の記憶の深い部分に想像力を働かせることが必要なのではないか」「なぜ語ってくれたのか。考え続けることが、記憶を主体的に継承し、自分事として考え続けることにつながるのではないか」と訴えた。
 
 登壇者の一人として、釜石の収容所で捕虜生活を送ったオランダ人男性の孫、エローイ・リンダイヤさん(60)が思いを語った。祖父エヴェルト・ウィレム・リンダイヤさん(1908-81年)はオランダ領のインドネシアから連行され、大橋を主として生活し、機械整備や病人の看護などをさせられた。45年9月に解放されるまで書き続けていたのが、家族にあてた日記形式の手紙。「祖父にとって希望を持ち続けるための大切な手段であり、父にとっては生きていく上で非常に大事な命綱となった」と明かした。
 
釜石で捕虜生活を送った祖父について語るエローイ・リンダイヤさん

釜石で捕虜生活を送った祖父について語るエローイ・リンダイヤさん

 
 この節目の集いは「戦争の恐ろしさを忘れず、勇気と人間性を持って平和を深く願った人たちをたたえるため」と、エローイさんは意義を強調。「戦争犠牲者への追悼と戦火を交えた国同士の和解が未来に続く指針になるように」と願った。
 
 リンダイヤ一家の物語を4月に出版した米オハイオ州のメリンダ・バーンハートさん(81)も壇上でメッセージを発信。一家の物語は、釜石というまちの物語でもあったとし、「過酷な収容生活の一方で、思いやりの物語を見つけられた」と明かした。
 
 パネル討論では、佐野さんや小暮さん、市内外で戦争の伝承活動や平和教育を実践する6人が「戦争と平和を考える」をテーマに取り組みを紹介した。釜石艦砲の歴史を教育に取り入れている甲子中学校の川村吉(はじめ)教諭(36)は「授業を終えた後に市内の戦跡に行った子もいて、関心を高めることにつながっている」と成果を説明。「知ること、自分事として主体的に捉えることを意識して授業を進めたい」と展望した。
 
「戦争と平和を考える」をテーマにしたパネル討論

「戦争と平和を考える」をテーマにしたパネル討論

 
 市内外の小中学校で釜石艦砲の体験者が制作した紙芝居の読み聞かせなどを行っている読書サポーター「颯(かぜ)・2000」の千田雅恵代表(62)は、活動を通じた語り継ぎに手応えを感じる一方で、「小中学校以外の世代にどうやって伝えていけばいいか」と課題を認識。「学校や地域、行政、市民の力を借りて解決したい」とした。
 
 戦争の歴史を平和教育に生かすべきと考え、7月に市内の戦跡を巡るバスツアーを企画した釜石高校3年の佐藤凛汰朗さんと中澤大河さんは「持続的な活動にしなければ戦争の記憶の継承も実現できない」と考察。一過性の取り組みではなく、「後輩やさらに下の世代に受け継いでほしい」と望んだ。
 
 小暮さん、佐野さんは、祖父の手記や自身の経験などが記憶の継承に生かされていることをうれしく感じた様子。小暮さんは「捕虜、収容所のことを釜石市の記憶として伝えていくことはものすごく重要だ」、佐野さんは「若い世代に戦争の残虐さ、平和のありがたさを(戦後)90年、100年になろうとも未来に伝えてほしい」と願った。
 
戦後80年の節目に幅広い世代が集い、継承への思いを共有した

戦後80年の節目に幅広い世代が集い、継承への思いを共有した

 
「戦争と平和を考える機会になった」と感想を話す中学生

「戦争と平和を考える機会になった」と感想を話す中学生

 
 大平中1年の田原薫さんは、戦時中に釜石に捕虜収容所があったこと、艦砲射撃や病気などで多くの外国人が亡くなったことを初めて知った。戦争体験者の話から、当時の状況や苦労を感じ取り、「聞いたことや覚えたことを忘れずに周りに伝えたい。艦砲射撃のことや戦争の歴史をさらに調べてみる」とうなずいた。
 
「人の縁、どう巡るか分からないね」と捕虜収容所の関係者の子孫ら。右から、小暮さん、エローイさん、吉田武子さん、メリンダ・バーンハートさん

「人の縁、どう巡るか分からないね」と捕虜収容所の関係者の子孫ら。右から、小暮さん、エローイさん、吉田武子さん、メリンダ・バーンハートさん

 
 聴講した人の中には、稲木さんの部下だった故岩淵清己さんの遺族の姿も。岩淵さんの三女で、宮城県気仙沼市の吉田武子さん(87)は終戦時7歳だった。父が自宅に背の高い外国人を連れてきたことや、戦後戦犯として収監されたことを覚えているという。今回は、小暮さんに会うために来場。言葉を交わし、「良かった」と胸を熱くした。今なお調査を追い続ける小暮さんの姿に敬意を示し、「これからの時代を生きる人たちのためにも歴史、記憶をつないでいかなければ」と言葉をかみしめた。

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6年ぶりの鹿踊り・手踊りで橋野に活気 瀧澤神社例大祭 住民、縁故者 地域の良さ実感

瀧澤神社例大祭で踊りを奉納する橋野鹿踊り=7月27日、同神社里宮境内

瀧澤神社例大祭で踊りを奉納する橋野鹿踊り=7月27日、同神社里宮境内

 
 釜石市橋野町の瀧澤神社の例大祭が7月27日、6年ぶりに盛大に行われた。橋野鹿踊り・手踊り保存会(菊池郁夫会長)が神社で踊りを奉納したほか、町内2カ所でも披露。久しぶりのお囃子(はやし)や華やかな踊りに、町内外から訪れた見物客がうれしそうに見入った。人口減や少子化などで地域の伝統継承が難しくなっている昨今。同地域も例外ではないが、住民らは力を合わせ、次世代への確実な継承に励む。
 
 同神社の例大祭は7月下旬に行われる。郷土芸能の奉納を伴って盛大に行われるのは約3年に一度。今回はコロナ禍による休止を経て、2019年以来の開催となった。始めに里宮から約2キロ離れた山中にある奥の院で神事が行われ、総代ら関係者約10人が祈りをささげたほか、鹿踊りが奉納された。
 
沢桧川沿いに建つ瀧澤神社奥の院で祈りをささげる神社総代ら

沢桧川沿いに建つ瀧澤神社奥の院で祈りをささげる神社総代ら

 
奥の院を訪れた橋野鹿踊り・手踊り保存会。祠の前で踊った

奥の院を訪れた橋野鹿踊り・手踊り保存会。祠の前で踊った

 
里宮拝殿では来賓を含む関係者13人が玉串をささげた。

里宮拝殿では来賓を含む関係者13人が玉串をささげた。

 
 里宮の拝殿では来賓を含めた13人が参列して神事が行われ、玉串をささげて五穀豊穣、地域の安寧などを祈った。境内では同保存会の女性23人が古くから受け継がれる3種の「豊年踊り」を披露。集まった見物客から盛んな拍手を受けた。踊りには地元住民のほか、同町出身で他地域に暮らす人たちも協力した。
 
 保存会役員の伊藤千鶴子さん(56)は「みんなで声掛けした結果、世話人を含め30人近い人たちが集まってくれた」と感謝。「祭りは心の活力を生み、地域に元気を与えてくれる。人と人とのつながりも一層深まる」と意義を強調。伝統芸能の継承には課題もあるが、「祭りに向けての練習だけでなく、月に1回集まり踊りやお茶っこを楽しむ手踊りクラブみたいなものもできれば」と今後に考えを巡らせた。
 
橋野町出身者も協力し、踊りの輪を作った手踊り

橋野町出身者も協力し、踊りの輪を作った手踊り

 
次世代を担う子どもたちもかわいらしい浴衣姿で参加

次世代を担う子どもたちもかわいらしい浴衣姿で参加

 
6年ぶりに華やかな光景が広がった神社境内。昔ながらの祭り囃子が響く

6年ぶりに華やかな光景が広がった神社境内。昔ながらの祭り囃子が響く

 
 橋野鹿踊りには32人が参加し、「館褒め」から「礼踏み」まで一連の7演目を披露した。同地域の鹿踊りは江戸時代末期、現在の遠野市附馬牛町東禅寺から指導者を招き、稽古したのが始まりとされる。今年7月の「橋野鉄鉱山」世界遺産登録10周年イベントでも踊りを披露した。
 
 鹿頭を身に付けて踊る伊藤和也さん(40)は暑い中での踊りを終え、「疲れるが、踊った後はすがすがしい気持ちになる」と笑顔。祭りでの披露は「普段顔を見ない人たちも出てきて楽しんでくれる。祭りはなくてはならないもの」と実感。こちらも担い手不足は顕著で、地域出身者の参加は大きな力。「新たにやってみたい」という声も聞いており、仲間が増えることを願う。
 
子踊りの先導で鹿が入場。橋野鹿踊りの奉納

子踊りの先導で鹿が入場。橋野鹿踊りの奉納

 
刀振りと鹿の掛け合いも見どころの一つ「側踊り」

刀振りと鹿の掛け合いも見どころの一つ「側踊り」

 
子踊りの子どもたちも躍動。さまざまな踊りを覚え、頑張りました!

子踊りの子どもたちも躍動。さまざまな踊りを覚え、頑張りました!

 
 同神社総代長の小笠原孝一さん(76)によると、古くは神社境内に土俵があり、祭りの際に栗橋地域の若者たちが相撲を取って盛り上げていたこともあったという。小笠原さんは「私たちの年代が小学校の頃は夜店が連なるなど、祭りは大変なにぎわいだった」と懐かしんだ。
 

瀧澤神社に祭られる「不動明王像」 文化財的価値に注目 元県立博物館学芸員が地元住民に講演

 
不動明王の縁日6月28日に開かれた講演会。佐々木勝宏さん(左)が講師を務めた

不動明王の縁日6月28日に開かれた講演会。佐々木勝宏さん(左)が講師を務めた

 
 瀧澤神社の里宮と奥の院には「不動明王像」が祭られている。「なぜ、神社に仏像があるのか?」。そのルーツをたどる講演会が6月下旬に橋野ふれあいセンターで開かれた。講師を務めたのは元岩手県立博物館主任専門学芸員の佐々木勝宏さん(63)。地域住民ら約50人が、その歴史と文化財としての価値に理解を深めた。
 
 遠野物語拾遺33「鮫の参拝」の伝説が残り、2007年には周辺の沢桧川の景観とともに市指定文化財となった瀧澤神社奥の院。滝つぼに接する巨大な崖の上に建つ祠(ほこら)には、ご神体に見立てた不動明王立像(石像)が祭られる。近くには地元住民が水神様として崇拝する小さな祠があり、中には同座像(同)が安置される。佐々木さんによると、同座像は鎌倉時代、同立像は室町時代に制作されたものとみられるという。
 
1995年に「岩手の景観賞」を受賞した瀧澤神社奥の院周辺。沢桧川の清流が木々の緑と相まって絶景を生み出している。2007年には名勝として市指定文化財になった

1995年に「岩手の景観賞」を受賞した瀧澤神社奥の院周辺。沢桧川の清流が木々の緑と相まって絶景を生み出している。2007年には名勝として市指定文化財になった

 
巨大な崖の上に建つ奥の院の祠。写真右下は水神様の祠

巨大な崖の上に建つ奥の院の祠。写真右下は水神様の祠

 
 同神社の里宮は橋野町沢地区の高台にある。本殿にある不動三尊像(木像)は、中央に不動明王(座像)、左に制叱迦童子(せいたかどうじ)、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)が据えられたもの。これらの像は江戸時代の1795(寛政7)年に、先祖が橋野で大槌生まれの兄弟僧侶、秀井慈泉(菊池佐兵衛)と佛眼祖睛(弟・武助)が親族らから金を集め、京都の仏師が作った像を奉納したものだという。神社を管理する別当の菊池康二さん(56)宅には、寄付者10人の名前などが記された寄付状が受け継がれる。
 
瀧澤神社里宮本殿(左)に祭られている不動三尊像(右)。現在、京都で修復作業中

瀧澤神社里宮本殿(左)に祭られている不動三尊像(右)。現在、京都で修復作業中

 
不動三尊像購入に協力した人たちの名前などが記されている寄付状に見入る

不動三尊像購入に協力した人たちの名前などが記されている寄付状に見入る

 
 では、なぜ神社に仏像なのか? それには奈良時代から続いた「神仏習合」が関係する。日本では古くに神道と仏教が融合し、一つの信仰対象となる独自の宗教文化があった。これにより神と仏は同一視され、同じ社で崇拝されるが、明治時代になると「神仏分離令」が出され、仏像の破壊運動などが起こる。佐々木さんは「目に留まって壊されないよう、当時の人たちは不動明王像をご神体として人に見せないようにしたと考えられる。もともと“沢の不動尊”としてきた場所も瀧澤神社として神社の形式をとったのではないか。自分たちの信仰を守るための知恵」と話す。
 
 慈泉、祖睛兄弟は、江戸時代の橋野村の肝いり古里嘉惣治のひ孫。嘉惣治は地頭の厳しい取り立てで極度に苦しめられていた村人を助けるため、1674(延宝2)年、老名(肝いりの相談役)小屋野十三郎とともに南部藩主に直訴。村人は救われたが、2人は処刑された。佐々木さんは「研究者の文献では、像の奉納は嘉惣治の追善供養のためとあるが、それだけではなく、橋野の人たちの守り神として祭ったのではないか」との見解も示した。嘉惣治の直訴は藩の家老が記した雑書にも記録があるが、地元で伝わっている話と異なる部分もあり、佐々木さんはその理由についても解説した。
 
橋野町荻の洞にある「古里嘉惣治、小屋野十三郎三百年忌の大碑」。1964(昭和39)年建立。地元では50年ごとに2人の追善供養が行われている

橋野町荻の洞にある「古里嘉惣治、小屋野十三郎三百年忌の大碑」。1964(昭和39)年建立。地元では50年ごとに2人の追善供養が行われている

 
 佐々木さんによると、里宮の不動三尊像は制作地や年代が判明していることから文化財としての価値も高いという。長い年月の中で素人による色の塗り直しなどがあり、本来の姿を取り戻すため、佐々木さんが中心となって京都の専門業者に修復を依頼。現在、作業が進行中だという。
 
 別当の菊池さんは、2023年に亡くなった母ヨシヱさん(享年92)が望んでいた像の修復が実現したことに深く感謝。「母は信仰心がとても強く、神社のことを一生懸命やっていた。像修復の夢がかなって安心しているだろう。自分も改めてその歴史を知り、しっかり守っていかねばとの思いを強くした」と話した。

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夏はやっぱりこれ! 松倉っ子vs川魚 恒例のつかみどりに150人 親子で楽しむ川遊び

「魚、とるぞー!」特設いけすに足を踏み入れる子どもら=甲子町松倉

「魚、とるぞー!」特設いけすに足を踏み入れる子どもら=甲子町松倉

 
 釜石市甲子町の松倉町内会(佐野賢治会長、550世帯)行事「魚のつかみどり」が26日、甲子川で行われた。夏休みに入ったばかりの子どもたちと保護者ら約150人が集合。県立釜石高裏、松倉橋そばの浅瀬に設けた特設いけすにヤマメとイワナ計約400匹が放たれ、参加者が“今晩のおかず”を求めて魚を追いかけた。
 
 同行事は地域の宝である甲子川の魅力に触れながら、子どもたちに夏休みの楽しい思い出を作ってほしいと同町内会が企画。2006年から始まった夏の恒例行事は、今回で通算17回目となった。甲子小PTA北松倉こども会(佐野智恵子地区長)、同南松倉こども会(千葉慎吾地区長)が共催する。
 
 前日に網を張って作った特設いけすに放たれたのは、両石町の千丈ヶ滝養魚場から購入したヤマメ約250匹とイワナ約150匹。幼児から年代ごとに分かれて川に入り、つかみどりに挑戦した。子どもたちは素早く泳ぎ回る魚に四苦八苦。それでも囲いの網沿いに追い込むと、タイミングを見計らって両手でぎゅっとつかんだ。
 
水中に目を凝らし魚の動きを追う。そーっと手を伸ばして…

水中に目を凝らし魚の動きを追う。そーっと手を伸ばして…

 
わが子の奮闘を収めようと、周辺では親たちがスマホカメラを向けた

わが子の奮闘を収めようと、周辺では親たちがスマホカメラを向けた

 
体長20センチ以上のヤマメとイワナ。つかみ応えもありそう

体長20センチ以上のヤマメとイワナ。つかみ応えもありそう

 
「やったー!とったよ」満面の笑顔を見せる子ども

「やったー!とったよ」満面の笑顔を見せる子ども

 
 一人3匹とれたら終了。制限時間約15分でつかまらない場合は、たも網に入れた中から魚をとってもらった。つかみどりの前後には生き物を探したり泳いだりと、きれいな川を存分に堪能した。熱中症対策として参加者には飲料2本も支給された。
 
 甲子中2年の小笠原采己さんは“古参”の友人3人に誘われて今年初めて参加。「魚がすごくすばしこくて…。ぬるぬるして素手では難しかったので軍手を借りて何とかつかまえられた」と満足げ。友人の千葉倖志さん(同2年)は渓流釣りで普段から同河川に親しむ。「甲子川は間違いないです。最高」と魚資源の豊富さに太鼓判。「自分たちにとっても大事な川。ごみとか見つけたら積極的に拾ったりしてきれいにしていきたい」と愛着をにじませた。仲良し4人組は「この後、みんなで焼いて食べます」と、ゲットした川魚に満面の笑みを広げた。
 
足元に魚はいるものの…すばしこい泳ぎに苦戦

足元に魚はいるものの…すばしこい泳ぎに苦戦

 
今晩のおかずゲット! つかんだ魚を家族が持つビニール袋へ

今晩のおかずゲット! つかんだ魚を家族が持つビニール袋へ

 
「みんなで食べるの、楽しみー!」地元の中学男子4人組

「みんなで食べるの、楽しみー!」地元の中学男子4人組

 
昔、この辺りは深さがあり、夏になると大人たちが石を組んで天然プールを作ってくれたそう…(佐野会長談)

昔、この辺りは深さがあり、夏になると大人たちが石を組んで天然プールを作ってくれたそう…(佐野会長談)

 
 酷暑やクマの出没などで外出もままならない中、迎えた今年の夏休み。南松倉こども会の千葉地区長(42)は「子どもたちの生活がいろいろ制限される中、こうして自然と触れ合える機会は大変貴重。楽しそうな姿を見ると、親としてもうれしいもの」と顔をほころばせる。自身も甲子出身。「自分たちが子どもの頃は川にも自由に入って遊べた時代。懐かしい思い出だが、今は(子どもだけの)川遊びは基本的に禁止。残念ではあるが…(時代の要請なので)」と受け止める。
 
 同町内会のもう一つの夏行事「盆踊り大会」は8月16、17の両日、午後7時から甲子公民館前で行う。今年も豪華景品が当たる抽選会を予定する。

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広報かまいし2025年8月1日号(No.1861)

広報かまいし2025年8月1日号(No.1861)
 

広報かまいし2025年8月1日号(No.1861)

広報かまいし2025年8月1日号(No.1861)

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【P1】
釜石納涼花火2025

【P2-3】
釜石はまゆりサクラマスフェア

【P4-5】
イベント案内 他

【P6-7】
ツキノワグマの被害に遭わないために
8月の粗大ごみ収集予約受付のお知らせ 他

【P8-9】
教育広報「いのちの教育」を推進しています

【P10-11】
まちのお知らせ

【P12】
第34回釜石よいさ

この記事に関するお問い合わせ
釜石市 総務企画部 オープンシティ・プロモーション室
〒026-8686 岩手県釜石市只越町3丁目9番13号
電話:0193-27-8463 / Fax 0193-22-2686 / メール
元記事:https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2025072800028/
釜石市

釜石市

釜石市公式サイトと連携し、縁とらんすがピックアップした記事を掲載しています。記事の内容に関するお問い合わせは、各記事の担当窓口までお問い合わせください。
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戦後80年―記憶つなぐ 釜石の戦跡めぐるバスツアー 案内役は高校生 戦災展も紹介

防空壕跡を案内する佐藤凛汰朗さん(左)と中澤大河さん

防空壕跡を案内する佐藤凛汰朗さん(左)と中澤大河さん

 
 釜石市の高校生が、市内の戦跡を巡るバスツアーを企画した。戦後80年の節目に「釜石艦砲射撃」など戦争の歴史を振り返り、平和について考えてもらおうとコースを設定。21日、小学生から80代までの市民ら20人を乗せたバスが、まちに残る戦争の記憶をたどった。
 
 企画したのは、釜石高3年の佐藤凛汰朗さんと中澤大河さん。2年時のゼミ活動で地域の魅力を高め活性化させる取り組みを考える中で、戦争の歴史に着目した。釜石は1945年の7月14日と8月9日の2回、米英連合軍などの艦隊から艦砲射撃を受けた“被害者”だが、当時、まちには捕虜収容所があって“加害”の側面もありうることから、「両方の視点から平和を学ぶ教育の拠点になるのではないか」と考えた。
 
 バスツアーの企画を練ったが、予算面など高校生には難しかった。そこで、今年2月に高校生を対象にしたウオーキングツアーを企画、実行して手応えを得た一方、「単発では意味がない」と感じた。ゼミ活動のまとめ発表で「地域の持続的なイベント化を目指す」と展望したところ、2人の活動が市職員らの目に留まり、バスツアーが実現した。市教委文化財課の協力を得て市主催事業となり、ツアーのコースを決定。市郷土資料館や釜石観光ガイド会などの力も借り、案内役として知識の深化に取り組んだ。
 
釜石の戦跡を巡るバスツアー。参加者を誘導する佐藤さん(右)

釜石の戦跡を巡るバスツアー。参加者を誘導する佐藤さん(右)

 
移動中の車内でもまちの歴史を解説した(写真:釜石市提供)

移動中の車内でもまちの歴史を解説した(写真:釜石市提供)

 
 ツアー当日、2人はマイクロバスで約3時間半かけて5カ所を案内した。印象に残りやすい戦跡として選んだ小川町の防空壕(ごう)跡では、普段は閉じられている扉を開き、参加者に“体験”を促した。奥行き約50メートル、岩盤に設置されたこの壕には艦砲射撃の際、住民約50人が避難したとされる。「白いブラウス(女学生のこと)が目立ち、入れてもらえず、山中に逃げた」などと事前に学んだ体験者の声を引用しながら、当時の状況を伝えた。
 
小川防空壕跡で戦時中のエピソードを紹介する高校生

小川防空壕跡で戦時中のエピソードを紹介する高校生

 
高校生の解説にじっと耳を傾けるツアー参加者

高校生の解説にじっと耳を傾けるツアー参加者

 
戦時中の状況を考えながら防空壕跡を見学する参加者

戦時中の状況を考えながら防空壕跡を見学する参加者

 
 嬉石町の隧道(ずいどう=トンネル)避難口は、住宅街の一角に残る戦跡。「戦争を身近なものとして考えてほしい」とツアーに組み込んだ。「加害の側面からも考えなければ」と案内した大平町の大平公園内にある日本中国永遠和平の像では戦時中に亡くなった外国人捕虜を悼んだ。
 
嬉石隧道避難口では体験者の声を引用し当時の状況を伝えた

嬉石隧道避難口では体験者の声を引用し当時の状況を伝えた

 
平和を考える場所として薬師公園や大平公園なども巡った

平和を考える場所として薬師公園や大平公園なども巡った

 
 参加者は「(戦争の歴史は)だいたい知っていると思っていたが、高校生に新しいことを教えてもらった。新鮮な体験になった」などと感想。観光ガイドとして活動する栗林町の川崎通さん(68)は「学んだことを届けたいという懸命さが伝わってきた。手書きの地図とか視覚的に訴えたり、参加者への気遣いがすごい。自分も頑張らなきゃと刺激になった」と話した。
 
 ツアーを終えた2人は「やってよかった」と声をそろえた。中澤さんは「つたない説明に反応してくれたり、知らなかったことを教えてくれたり、うれしかった。これで終われないと思った。学びを深め、戦争の記憶を将来につなげたい」とうなずいた。
 
 佐藤さんは「市内には戦争の跡が残っているのに知らない人が多い。戦争の記憶が忘れられてしまう」と危機感を持つ。地域に根づくイベントとして継続の形を思案中。「若い人たちが積極的に学び、継承していくことが重要になる。戦後80年の節目で終わらせるのではなく、後輩や他校の生徒にも声をかけたい」と見据えた。
 

郷土資料館で企画展 未来に伝える「釜石艦砲射撃」

 
釜石市郷土資料館では戦災資料展が開かれている

釜石市郷土資料館では戦災資料展が開かれている

 
 ツアーの発着点となった市郷土資料館(鈴子町)では、戦災資料展「艦砲射撃80年―未来に伝えるために」が開催中。「釜石艦砲」の激しい砲撃をくぐり抜けて残った家財道具、当時の様子を描いた油絵や写真など170点余りを展示している。ツアーの中で、佐藤さんと中澤さんは砲弾の破片などの展示物を解説。「これを機に戦争について深く考えてほしい」と呼びかける。
 
 日本が軍事色を強めていく中、釜石のまちも製鉄所を中心に工業用地を広げ設備、生産の増強を図るなど戦時色が濃く塗り重ねられていった。戦争にどう関わっていたか…兵士として戦地に赴いた人々と残された家族、艦砲射撃で亡くなった外国人捕虜の存在など戦中、戦後復興の様子を写真や解説パネル、兵士の持ち物など展示物で紹介する。
 
兵士の持ち物や手紙など戦争にまつわる展示物が並ぶ

兵士の持ち物や手紙など戦争にまつわる展示物が並ぶ

 
 今回の注目は、釜石出身で埼玉県在住の角田陽子さん(81)から今春寄贈された小さな木製の机。床に座って読み書きする際に使う「文机」と呼ばれるものだ。45年1月に戦病死した父・鈴木正一さんが作った。7月14日、母・郁子さんは艦砲の犠牲になった。当時、角田さんは1歳。両親の記憶はないが、戦火を逃れた机は形見として大事にしてきた。「戦争の記憶を後世に」。両親への思いなどをつづった詩集「文机」(自費出版)、正一さんが残した手紙、郁子さんが手作りしたレース小物を添え、今回初めて公開している。
 
初公開の「文机」。家族の遺品と共に展示されている

初公開の「文机」。家族の遺品と共に展示されている

 
 敗戦後、捕虜として極寒のシベリアに抑留された人々の過酷な生活の一端も紹介する。アルミ製と見られる手製のスプーンは収容所で与えられる食料が硬かったことから、食材をつぶすのに使われたものとのこと。盗難防止のためか、「マスサハ」と名が刻まれている。不十分な防寒具、深刻な栄養失調、体力が落ちる中での重労働…。そうした生活から生還、引き揚げ後に釜石で暮らした「鱒澤宣比古さん」の親族が「見て、知ってほしい。目を向けてほしい」と望み、今展に並べられた。
 
「シベリア抑留」の生活の一端を紹介する展示

「シベリア抑留」の生活の一端を紹介する展示

 
 鱒澤さんにまつわるものは他にも。その“命をつないだスプーン”の隣には、日本の家族と交わしたはがきがある。日本語に不慣れな旧ソ連の検閲官が読めるよう書かれた文字は全て片仮名。「イツカハカヘルユエキヲツケテマテ」「タノシキハルモマタオトズレルデアラウ」などと家族を気遣う言葉がしたためられている。日ソ共同宣言により、抑留者に国からの補償はないが、日本政府から銀杯が贈られた。その箱に記された「慰労杯」との墨文字。本人が書いたものだという。同館の佐々木寿館長補佐は、親族の言葉を伝える。「よっぽど悔しかったのだと思う。面白人だった」と。
 
戦火跡を残す家財道具が展示されたコーナー

戦火跡を残す家財道具が展示されたコーナー

 
 戦災資料展は9月7日まで(火曜休館)。午前9時半~午後4時半(最終入館は同4時)。入館料200円(高校生以下無料)。

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地球にやさしいごみ処理に「なるほど!」 沿岸南部クリーンセンター見学会大盛況

ごみクレーンの動きに興味津々の来場者=岩手沿岸南部クリーンセンター施設見学会

ごみクレーンの動きに興味津々の来場者=岩手沿岸南部クリーンセンター施設見学会

 
 釜石市平田の「岩手沿岸南部クリーンセンター」は26日、一般向けの施設見学会を開いた。釜石、大船渡、陸前高田、大槌、住田3市2町のごみを「ガス化溶融炉」で処理する同施設。来場者は普段見ることのない工場棟を見学し、収集されたごみが再資源化されるまでの処理過程に理解を深めた。この日は同見学会としては過去最多の167人が訪れた。
 
 来場者はDVDで施設概要について学んだ後、職員の案内で工場棟に向かった。同施設には、ごみを高温で溶かして処理する溶融炉が2炉ある。炉の内部は1800度にも達し、溶融物は各種処理を経て、「スラグ」と「メタル」という資源物に再生される。1日に147トン(73.5トン×2炉)のごみ処理が可能で、73.5トンの処理からスラグ約6トン、メタル約2トンができる。黒っぽい砂状のスラグは道路などの舗装用材として活用。小石状の鉄の塊メタルは建設機械後部の重しや製鉄所などで有効利用される。これにより、最終処分場での埋め立て量を減らすことができる。
 
ガス化溶融炉や排ガス処理設備、蒸気タービン発電機などを窓越しに見学

ガス化溶融炉や排ガス処理設備、蒸気タービン発電機などを窓越しに見学

 
 施設では、溶融処理で発生するガスの熱エネルギーを利用した発電も行っている。熱で作った蒸気の力で発電機を動かす「蒸気タービン発電機」を備え、作られた電気は場内の設備の稼働、照明、暖房などに利用される。余った電気は電力会社に売電。余熱を利用して湯も沸かし、浴場として平日に無料で一般開放している。溶融炉で発生したガスはダイオキシン類などの有害成分を分解し、薬品やフィルター処理を施した後、クリーンな状態で建屋の煙突から排出される。
 
 来場者は365日24時間体制でプラントを監視する中央制御室、クレーンでごみを撹拌(かくはん)し溶融炉に投入するごみピットなどを見学。クレーンは一度に約700キロのごみをつかんで、15分間隔で炉頂から入れることも聞き、驚きの声を上げた。
 
中央操作室、ごみクレーン運転室にはさまざまなコンピューター機器が並ぶ

中央操作室、ごみクレーン運転室にはさまざまなコンピューター機器が並ぶ

 
ごみを撹拌(かくはん)し、溶融炉に投入する作業について技術担当者が説明

ごみを撹拌(かくはん)し、溶融炉に投入する作業について技術担当者が説明

 
 同市の佐々木久美子さん(70)は浴場の利用やごみの持ち込みで施設を訪れたことはあるが、内部の見学は初めて。「ごみ処理のしくみがよく分かった。普段からごみの分別には気を付けていて、4月から始まったプラごみ分別も頑張っている。収集業者さんに迷惑をかけないよう協力していければ」と意識をさらに高めた。地元平田地区の女性(54)は「処理過程をモニターで見たりするとより理解が深まる。たくさんの熱が生まれているのにも驚き。もっと有効活用が図られれば」と今後に期待した。
 
 この日は施設見学ツアーのほか、県環境学習交流センター(盛岡市)による出張学習会が開かれた。手回し発電体験やエコチェック、自然素材の工作コーナーなどがあり、幅広い世代が楽しんだ。浴場も特別開放した。
 
県環境学習交流センター(盛岡市)が出張。環境に関わる各種体験コーナーを設けた

県環境学習交流センター(盛岡市)が出張。環境に関わる各種体験コーナーを設けた

 
手回し発電機やうちわで発電体験(写真左)。クリーンセンターをモニターで学ぶ機器も(同右)

手回し発電機やうちわで発電体験(写真左)。クリーンセンターをモニターで学ぶ機器も(同右)

 
 同施設は沿岸南部5市町が共同で建設した。稼働開始を予定していた2011年4月を前に東日本大震災が発生。施設は津波による大きな被害は免れ、電気設備の復旧後に本格稼働した。14年8月までは被災4市町の災害廃棄物処理も行った。近年は人口減や資源物の分別収集などで、ごみ処理量は減少傾向にある。2024年度の処理量は約2万5100トン(前年度比約1300トン減)。
 
 施設へのごみの直接持ち込みは現在、平日に限り受け入れているが、生活スタイルの多様化や社会情勢の変化に伴い、休日受け入れについても検討するため、試験的に9月まで月1回(第3土曜日)の受け入れを実施している。対象は釜石市と大槌町の住民。(詳細は市のホームページを参照)