釜石艦砲射撃など戦時中の歴史を知る講演会で釜石中の生徒は真剣な表情で聞き入った
太平洋戦争末期に釜石市が米英軍から受けた1度目の艦砲射撃から71年の14日、戦時中の歴史を学ぶ講演会が釜石中(川崎一弘校長、生徒347人)で開かれた。講師を務めたのは、三陸アーカイブ減災センター代表理事の岩切潤さん(81)。「かまいしの昭和20年」と題し、艦砲射撃を生き延びた自身の体験談や復興の歩み、未来につなぐ平和への思いを生徒らに伝えた。
1945(昭和20)年、釜石は7月14日と8月9日の2度にわたって米英軍から艦砲射撃を受け、市街地は焼け野原になり、市民ら750人以上が犠牲になるなど大きな被害を出した。
岩切さんは浜町生まれで、釜石国民学校(現釜石小)5年生の時に艦砲射撃を経験。防空訓練の様子や艦砲射撃を受けた釜石市内の風景などの写真、被弾図など資料を交えながら、”その時”の避難行動や疎開先での暮らしぶりを話した。
艦砲射撃から3年後の1948年に製鉄所の高炉が再建され、「今となっては環境問題になるが、駅前に並んだ煙突からもうもうと出る黒い煙がまちの活力を見せていた」と岩切さん。50年に釜石線の全線開通、59年に国道283号・仙人峠の開通と続いた復興の歩みも紹介した。
焼けた家々、砲弾によってできた道路の大きな穴、おびただしい遺体―。2回目の艦砲射撃で浜町を焼け出され、小川町まで避難する中で見た惨状を生々しく語り、「戦争は絶対してはいけない、させてはいけない。仲良くしていけるよう、互いに思い合っていかなければ。今、生きている平和な世界が続いてほしい」と願った。
岩切さんは当時の体験を語れる人が減る中、戦災の記憶を語り継ぐ大切さを痛感。後世に語り継ぐことを使命として、講演など精力的に活動しており、生徒らに「釜石の歴史を知り、大きくなったら周りに伝えてほしい」と期待した。
戦争体験や平和への思いを語る岩切潤さん
生徒会長の千葉佑人君(3年)が代表してあいさつ。「普通に暮らしているまちで戦争があったなんて想像できなかった。実際に体験した人の話は重みがあり、悲しく、心が痛んだ。聞いて終わらせるのでなく、きちんと伝えていかなければ」と感謝した。
伊藤瑞希さん(3年)は親の転勤で1年半前に釜石に移住。「事前の授業で勉強していたが、爆弾が落ちる迫力など映像を見て初めて知ったこともあり、貴重な時間になった。岩切さんの『伝えてほしい』という言葉が強く心に残った。その思いに応えていきたい」と話した。
講演会は小佐野公民館と同校総合文化部(31人)のコラボ事業として行われた。学業や部活動とは違う体験や学ぶ機会をつくり、生徒の思考力、創造力、行動力を伸ばすのが目的。本年度は「釜石を極める」をテーマに、縄文の歴史、釜石鉱山、ごみ問題、ボランティア活動など5回実施する予定。
2回目の今回は特別編として、全校生徒を対象に開いた。
(復興釜石新聞 2016年7月16日発行 第504号より)
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