三浦命助の偉業学ぶ、橋野町老人クラブ〜血縁の克俊さん「命を大切に」と読み解く
三浦命助について学んだ「橋野寿友の会」の地域歴史学習会
釜石市橋野町の老人クラブ、橋野寿友の会(中館義元会長、54人)は20日、栗橋公民館と共催し、交通安全講話と地域歴史学習会を橋野ふれあいセンターで開いた。会員ら約30人が参加し、交通事故や高齢者を狙った詐欺被害の防止、郷土の偉人について理解を深めた。
釜石警察署橋野駐在所の三浦哲所長が、今年同署管内で発生している交通事故や全国的に多発している高齢者の事故について説明。「頭の感覚は若いころと同じでも、体力の衰えで機敏な動作ができないこともある」とし、歩行者は道路の横断時に左右をしっかり確認すること、夕方・夜間の外出時は明るい色の服や夜光反射材を身に着けることなど、自己防衛策を促した。
また、高齢ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えて店舗などに突っ込む事故が連日報道されていることに触れ、「体力や感覚の変化を感じたら、免許の自主返納を決断することも大事。車は自分の足として生活に密着しているだろうが、命と引き換えならばバスやタクシーの利用を考えては」と話した。
被害が後を絶たない振り込め詐欺のさまざまな手口にも言及。「最近はインターネットがらみで若い人でも被害に遭うケースが目立つ。不審な電話には、名前や住所などの個人情報を絶対に教えてはいけない。必ず家族や警察に相談を」と呼び掛けた。
歴史学習の講師を務めたのは、同公民館主査で、江戸時代末期に起こった「三閉伊一揆」の指導者の一人、三浦命助(1820―64)の血縁にあたる三浦克俊さん(栗林町在住)で、命助の生涯について紹介した。
三浦命助は栗林村(現栗林町)に生まれた。17歳の時、大飢饉(ききん)のため秋田藩の院内銀山に出稼ぎに行き、帰村後の20歳から、農業のほか、内陸と沿岸を行き来し農・海産物を売る荷駄商いをして生計を立てていた。
日本最大級とされる三閉伊一揆は、南部藩の過酷な課税に苦しむ三陸沿岸の農漁民が47年、53年の2度にわたり起こした。34歳の命助は1万6千人以上が参加した2度目の一揆に加わり、仙台藩に越訴した際、45人の代表者の一人として藩と交渉。願書・談判の一切を担い、免税など要求のほとんどを認められた。
一揆の終息後、栗林に戻ったが、村内の騒動で身の危険を感じ、仙台領へ出奔。出家し寺の住職も務めた後、京都に上り二条家の家来になった。57年、南部藩領に足を踏み入れたところを脱藩の罪で捕らえられ、盛岡の牢(ろう)に送られた。そのまま6年8カ月も勾留され、牢死。45歳でその生涯を閉じた。
上栗林の命助の生家跡前には、没後100年にあたり1963年に地域住民が建立した顕彰碑があり、裏山には命助の墓がある。講演した三浦克俊さん宅(屋号「東」)は、命助に関する資料を保管しており、この日は、命助が獄中で書き家族に送った「獄中記」や一揆を禁じる藩の立て札など貴重な資料を見せながら、命助の生きざまを伝えた。
克俊さんは、獄中記に記されている「人間と田畑をくらぶれば、人間は三千年に一度咲くうどん華なり―」という有名な一節に触れ、命を大切にする社会への願い、自分亡き後の家族を案じる気持ちを読み解いた。会員らは、橋野村からも133人が参加したとされる一揆で命助が果たした役割や意義を学び、地域住民を救った偉業に思いをはせた。
(復興釜石新聞 2016年11月26日発行 第541号より)
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