
日頃は釜石新聞NewSをご覧いただき、誠にありがとうございます。
以下の期間につきまして、夏期休載とさせて頂きます。
記事配信休止期間:2025年8月13日(水)~8月18日(月)
引き続き「釜石新聞NewS」をよろしくお願いいたします。
2025年8月1日
釜石まちづくり株式会社

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市民ホールTETTOギャラリーで夏休みの宿題に励む小学生ら=2日
夏休み中の小学生を対象としたイベント「市内いっせいしゅくだいの日」は2日、釜石市大町の市民ホールTETTOと情報交流センターを会場に開かれた。長期休みで顔を合わせる機会が減っている子ども、親同士のコミュニケーションの場として、同センターが初めて企画。子どもたちは涼しい環境で宿題に取り組み、合間には楽しいゲームで交流した。子どもたちが勉強に励む間、親たちは日本の公立小学校を題材にした教育映画を鑑賞した。
3年生以下と4年生以上の2つのグループに分けて時間割を設定。朝の会の後、子どもたちがそれぞれの“教室”で学習を開始した。1コマ40分で、各自持ち寄った夏休みの宿題に取り組んだ。算数や国語など学校から課題として出されているドリルの問題を解き進めた。

空調設備の整った快適空間が子どもたちの学習を後押し

40分間しっかり勉強した後は「スイカタイム」。ひと息入れて2時間目に備える
1時間目と2時間目の間の中休みには、冷やしたスイカをお振る舞い。頭も体もリフレッシュした後、後半の40分でさらに学習を進めた。帰りの会では勉強を頑張ったご褒美に、菓子がもらえるゲームを実施。水の入ったペットボトルで2色の絵の具を混ぜると何色になるかを当てるもので、実験的要素を含んだ楽しいゲームに子どもたちが歓声を上げた。

「2色の絵の具を水に入れて混ぜると何色に?」色当てゲームで盛り上がる

「やったー!」正解した子どもたちは跳びはねて大喜び。景品は人気菓子の「じゃがりこ」
川村奏音さん(小3)は「夏休みの宿題は半分ぐらい終わった。今日はこども園の時に一緒だった友達とも会えて楽しい」とにっこり。この日は偶然にも9歳の誕生日と重なり、「お菓子もいっぱいもらったし、いい思い出になった」と喜んだ。
長期休みの学習は子どもが自分で計画を立てて進めなければならないため、その進み具合は親も気になるところ。さまざまな誘惑がない環境で少しでも宿題がはかどれば、親としても安心できる。イベントを発案した同センター指定管理者の釜石まちづくり会社、下村達志事業部長は「長期休みの間、子どもが1日をどう過ごしているのか、親同士が情報交換できるのも大きい。今後は夏、冬両休みでの開催とし、勉強後のお楽しみ企画も充実させながら、認知度を高めていければ」と話した。

戦争の記憶を語り継ぐ催し「戦後80年 釜石と戦災」
太平洋戦争末期、岩手県釜石市を5300発超の砲弾が襲い、800人近くが犠牲になったとされる米英連合軍の2度の艦砲射撃から80年。戦火を経験した人は高齢となり、年々、戦時中の体験談を聞くのが難しくなってきている。そのような状況を見据え、まちに残された戦争の記憶をつなごうと、「戦後80年 釜石と戦災~未来に伝えるために~」(同市主催)が3日、大町の市民ホールTETTOで開かれた。講演会やパネル討論などを通じて世代を超えた記憶の継承、平和の大切さを考えた。
市民ら約150人が参加。講演会の冒頭、小野共市長が「国内で唯一2度にわたる艦砲射撃を受けた釜石には、戦争の悲惨さや愚かさ、平和の尊さを訴え、伝えていく役割がある。戦災からの復興を推し進めてきた先人たちの足跡を振り返りながら、戦争のない平和な世の中を目指す」とあいさつした。
講演では、市内在住の佐野睦子さん(94)が「わたしの戦争時代の思い出」と題して体験を伝えた。釜石は終戦直前の1945(昭和20)年7月14日と8月9日、米英連合軍などの艦隊から艦砲射撃を受けた。製鉄所があることで敵の攻撃を受ける可能性があると考えられ、佐野さんはその年の4月に故郷の釜石から現在の遠野市にあった女学校へ疎開していた。

「若さと忍耐で過ごした戦争時代」を振り返る佐野睦子さん
「ドシーンドシーン」。砲撃による地鳴りは疎開先でもはっきり聞こえた。2度目の砲撃の直後に疎開した同級生らから故郷の過酷な現状を聞いた。「戦争の恐ろしさを深く肝に銘じた日だった」。
釜石には捕虜収容所があり、隊列を組み鉱山での採掘などに向かう姿をよく見た。終戦後、その捕虜が口笛を吹きながら街を歩き回っている光景を見て、日本の敗戦を思い知った。
しばらくして釜石に戻った。「まちは地獄そのもの。この世のものと思われない悲惨さにただ立ち尽くした」。一面焼け野原。まちのシンボルだった製鉄所の5本の大煙突は砲撃で無残に折れ曲がっていた。釜石駅周辺には爆弾でできた大きな穴がいくつもあった。「もっと早く終わっていたら」。涙が止まらなかった。
「戦後80年の日本はなんと豊かでしょう。お腹いっぱい白いご飯を食べたいと切実に願う中で終戦、敗戦の時を見つめた私も94歳」と佐野さん。思い出を語る同級生は少なくなり、残された数ある思い出を語り尽くせていないとしつつ、「こんな時代もあったということを少しでも分かっていただけたら。平和な毎日のありがたさ、尊さを考えてほしいです」と、客席に語りかけた。
戦時中、釜石の捕虜収容所の所長を務めた故稲木誠さんの孫で、ニューズウィーク日本版記者の小暮聡子さん(44)も登壇。「戦争の記憶~未来への継承~」と題し、稲木さんが残した手記を元に記者として捕虜を訪ね、たどった戦争の記憶を語った。

「戦争の記憶を大切に受け取り、伝えていく」と話す小暮聡子さん
釜石には、釜石鉱山そばの現甲子町天洞の「大橋」と、現港町の矢ノ浦橋のたもとの「釜石」の2つの捕虜収容所があり、終戦時には計約750人が収容されていた。終戦直前の艦砲射撃では32人が犠牲になった。
「あの時の凄惨(せいさん)な光景と死のうめき声を忘れることができない」。そう書き残した稲木さん。戦後、捕虜を死なせたBC級戦犯として東京の巣鴨プリズンに5年半拘禁された。
収容所の管理、捕虜の扱いに最善を尽くしたと考えていた稲木さんは、戦犯とされたことに葛藤、苦悩し続けた。一方で、「祖父の心が救われる出来事があった」と小暮さん。元捕虜と文通して友情を育んだことを紹介した。
「手記を書き続けるのは地獄の苦しみ……戦争を知らない若者たちへの遺書にする」。そうした祖父の手記を高校生の頃に目にした小暮さんは「戦争の記憶は祖父を苦しめたのに…なぜつらい記憶を伝えようと思ったの、何を伝えたかったの」と問いかけながら、記憶をたどり続ける。
元捕虜や釜石艦砲の体験者、元兵士、遺族らに話を聞く中で、共通して感じるのは「戦争を2度と起こしてはならないという強い思いだ」と小暮さん。「戦争の非人道性を生々しく語れば語るほど、語る人の負担は大きい。それでも後世のため、私たちのために話してくれるからこそ、戦争の記憶の深い部分に想像力を働かせることが必要なのではないか」「なぜ語ってくれたのか。考え続けることが、記憶を主体的に継承し、自分事として考え続けることにつながるのではないか」と訴えた。
登壇者の一人として、釜石の収容所で捕虜生活を送ったオランダ人男性の孫、エローイ・リンダイヤさん(60)が思いを語った。祖父エヴェルト・ウィレム・リンダイヤさん(1908-81年)はオランダ領のインドネシアから連行され、大橋を主として生活し、機械整備や病人の看護などをさせられた。45年9月に解放されるまで書き続けていたのが、家族にあてた日記形式の手紙。「祖父にとって希望を持ち続けるための大切な手段であり、父にとっては生きていく上で非常に大事な命綱となった」と明かした。

釜石で捕虜生活を送った祖父について語るエローイ・リンダイヤさん
この節目の集いは「戦争の恐ろしさを忘れず、勇気と人間性を持って平和を深く願った人たちをたたえるため」と、エローイさんは意義を強調。「戦争犠牲者への追悼と戦火を交えた国同士の和解が未来に続く指針になるように」と願った。
リンダイヤ一家の物語を4月に出版した米オハイオ州のメリンダ・バーンハートさん(81)も壇上でメッセージを発信。一家の物語は、釜石というまちの物語でもあったとし、「過酷な収容生活の一方で、思いやりの物語を見つけられた」と明かした。
パネル討論では、佐野さんや小暮さん、市内外で戦争の伝承活動や平和教育を実践する6人が「戦争と平和を考える」をテーマに取り組みを紹介した。釜石艦砲の歴史を教育に取り入れている甲子中学校の川村吉(はじめ)教諭(36)は「授業を終えた後に市内の戦跡に行った子もいて、関心を高めることにつながっている」と成果を説明。「知ること、自分事として主体的に捉えることを意識して授業を進めたい」と展望した。

「戦争と平和を考える」をテーマにしたパネル討論
市内外の小中学校で釜石艦砲の体験者が制作した紙芝居の読み聞かせなどを行っている読書サポーター「颯(かぜ)・2000」の千田雅恵代表(62)は、活動を通じた語り継ぎに手応えを感じる一方で、「小中学校以外の世代にどうやって伝えていけばいいか」と課題を認識。「学校や地域、行政、市民の力を借りて解決したい」とした。
戦争の歴史を平和教育に生かすべきと考え、7月に市内の戦跡を巡るバスツアーを企画した釜石高校3年の佐藤凛汰朗さんと中澤大河さんは「持続的な活動にしなければ戦争の記憶の継承も実現できない」と考察。一過性の取り組みではなく、「後輩やさらに下の世代に受け継いでほしい」と望んだ。
小暮さん、佐野さんは、祖父の手記や自身の経験などが記憶の継承に生かされていることをうれしく感じた様子。小暮さんは「捕虜、収容所のことを釜石市の記憶として伝えていくことはものすごく重要だ」、佐野さんは「若い世代に戦争の残虐さ、平和のありがたさを(戦後)90年、100年になろうとも未来に伝えてほしい」と願った。

戦後80年の節目に幅広い世代が集い、継承への思いを共有した

「戦争と平和を考える機会になった」と感想を話す中学生
大平中1年の田原薫さんは、戦時中に釜石に捕虜収容所があったこと、艦砲射撃や病気などで多くの外国人が亡くなったことを初めて知った。戦争体験者の話から、当時の状況や苦労を感じ取り、「聞いたことや覚えたことを忘れずに周りに伝えたい。艦砲射撃のことや戦争の歴史をさらに調べてみる」とうなずいた。

「人の縁、どう巡るか分からないね」と捕虜収容所の関係者の子孫ら。右から、小暮さん、エローイさん、吉田武子さん、メリンダ・バーンハートさん
聴講した人の中には、稲木さんの部下だった故岩淵清己さんの遺族の姿も。岩淵さんの三女で、宮城県気仙沼市の吉田武子さん(87)は終戦時7歳だった。父が自宅に背の高い外国人を連れてきたことや、戦後戦犯として収監されたことを覚えているという。今回は、小暮さんに会うために来場。言葉を交わし、「良かった」と胸を熱くした。今なお調査を追い続ける小暮さんの姿に敬意を示し、「これからの時代を生きる人たちのためにも歴史、記憶をつないでいかなければ」と言葉をかみしめた。

瀧澤神社例大祭で踊りを奉納する橋野鹿踊り=7月27日、同神社里宮境内
釜石市橋野町の瀧澤神社の例大祭が7月27日、6年ぶりに盛大に行われた。橋野鹿踊り・手踊り保存会(菊池郁夫会長)が神社で踊りを奉納したほか、町内2カ所でも披露。久しぶりのお囃子(はやし)や華やかな踊りに、町内外から訪れた見物客がうれしそうに見入った。人口減や少子化などで地域の伝統継承が難しくなっている昨今。同地域も例外ではないが、住民らは力を合わせ、次世代への確実な継承に励む。
同神社の例大祭は7月下旬に行われる。郷土芸能の奉納を伴って盛大に行われるのは約3年に一度。今回はコロナ禍による休止を経て、2019年以来の開催となった。始めに里宮から約2キロ離れた山中にある奥の院で神事が行われ、総代ら関係者約10人が祈りをささげたほか、鹿踊りが奉納された。

沢桧川沿いに建つ瀧澤神社奥の院で祈りをささげる神社総代ら

奥の院を訪れた橋野鹿踊り・手踊り保存会。祠の前で踊った

里宮拝殿では来賓を含む関係者13人が玉串をささげた。
里宮の拝殿では来賓を含めた13人が参列して神事が行われ、玉串をささげて五穀豊穣、地域の安寧などを祈った。境内では同保存会の女性23人が古くから受け継がれる3種の「豊年踊り」を披露。集まった見物客から盛んな拍手を受けた。踊りには地元住民のほか、同町出身で他地域に暮らす人たちも協力した。
保存会役員の伊藤千鶴子さん(56)は「みんなで声掛けした結果、世話人を含め30人近い人たちが集まってくれた」と感謝。「祭りは心の活力を生み、地域に元気を与えてくれる。人と人とのつながりも一層深まる」と意義を強調。伝統芸能の継承には課題もあるが、「祭りに向けての練習だけでなく、月に1回集まり踊りやお茶っこを楽しむ手踊りクラブみたいなものもできれば」と今後に考えを巡らせた。

橋野町出身者も協力し、踊りの輪を作った手踊り

次世代を担う子どもたちもかわいらしい浴衣姿で参加

6年ぶりに華やかな光景が広がった神社境内。昔ながらの祭り囃子が響く
橋野鹿踊りには32人が参加し、「館褒め」から「礼踏み」まで一連の7演目を披露した。同地域の鹿踊りは江戸時代末期、現在の遠野市附馬牛町東禅寺から指導者を招き、稽古したのが始まりとされる。今年7月の「橋野鉄鉱山」世界遺産登録10周年イベントでも踊りを披露した。
鹿頭を身に付けて踊る伊藤和也さん(40)は暑い中での踊りを終え、「疲れるが、踊った後はすがすがしい気持ちになる」と笑顔。祭りでの披露は「普段顔を見ない人たちも出てきて楽しんでくれる。祭りはなくてはならないもの」と実感。こちらも担い手不足は顕著で、地域出身者の参加は大きな力。「新たにやってみたい」という声も聞いており、仲間が増えることを願う。

子踊りの先導で鹿が入場。橋野鹿踊りの奉納

刀振りと鹿の掛け合いも見どころの一つ「側踊り」

子踊りの子どもたちも躍動。さまざまな踊りを覚え、頑張りました!
同神社総代長の小笠原孝一さん(76)によると、古くは神社境内に土俵があり、祭りの際に栗橋地域の若者たちが相撲を取って盛り上げていたこともあったという。小笠原さんは「私たちの年代が小学校の頃は夜店が連なるなど、祭りは大変なにぎわいだった」と懐かしんだ。

不動明王の縁日6月28日に開かれた講演会。佐々木勝宏さん(左)が講師を務めた
瀧澤神社の里宮と奥の院には「不動明王像」が祭られている。「なぜ、神社に仏像があるのか?」。そのルーツをたどる講演会が6月下旬に橋野ふれあいセンターで開かれた。講師を務めたのは元岩手県立博物館主任専門学芸員の佐々木勝宏さん(63)。地域住民ら約50人が、その歴史と文化財としての価値に理解を深めた。
遠野物語拾遺33「鮫の参拝」の伝説が残り、2007年には周辺の沢桧川の景観とともに市指定文化財となった瀧澤神社奥の院。滝つぼに接する巨大な崖の上に建つ祠(ほこら)には、ご神体に見立てた不動明王立像(石像)が祭られる。近くには地元住民が水神様として崇拝する小さな祠があり、中には同座像(同)が安置される。佐々木さんによると、同座像は鎌倉時代、同立像は室町時代に制作されたものとみられるという。

1995年に「岩手の景観賞」を受賞した瀧澤神社奥の院周辺。沢桧川の清流が木々の緑と相まって絶景を生み出している。2007年には名勝として市指定文化財になった

巨大な崖の上に建つ奥の院の祠。写真右下は水神様の祠
同神社の里宮は橋野町沢地区の高台にある。本殿にある不動三尊像(木像)は、中央に不動明王(座像)、左に制叱迦童子(せいたかどうじ)、右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)が据えられたもの。これらの像は江戸時代の1795(寛政7)年に、先祖が橋野で大槌生まれの兄弟僧侶、秀井慈泉(菊池佐兵衛)と佛眼祖睛(弟・武助)が親族らから金を集め、京都の仏師が作った像を奉納したものだという。神社を管理する別当の菊池康二さん(56)宅には、寄付者10人の名前などが記された寄付状が受け継がれる。

瀧澤神社里宮本殿(左)に祭られている不動三尊像(右)。現在、京都で修復作業中

不動三尊像購入に協力した人たちの名前などが記されている寄付状に見入る
では、なぜ神社に仏像なのか? それには奈良時代から続いた「神仏習合」が関係する。日本では古くに神道と仏教が融合し、一つの信仰対象となる独自の宗教文化があった。これにより神と仏は同一視され、同じ社で崇拝されるが、明治時代になると「神仏分離令」が出され、仏像の破壊運動などが起こる。佐々木さんは「目に留まって壊されないよう、当時の人たちは不動明王像をご神体として人に見せないようにしたと考えられる。もともと“沢の不動尊”としてきた場所も瀧澤神社として神社の形式をとったのではないか。自分たちの信仰を守るための知恵」と話す。
慈泉、祖睛兄弟は、江戸時代の橋野村の肝いり古里嘉惣治のひ孫。嘉惣治は地頭の厳しい取り立てで極度に苦しめられていた村人を助けるため、1674(延宝2)年、老名(肝いりの相談役)小屋野十三郎とともに南部藩主に直訴。村人は救われたが、2人は処刑された。佐々木さんは「研究者の文献では、像の奉納は嘉惣治の追善供養のためとあるが、それだけではなく、橋野の人たちの守り神として祭ったのではないか」との見解も示した。嘉惣治の直訴は藩の家老が記した雑書にも記録があるが、地元で伝わっている話と異なる部分もあり、佐々木さんはその理由についても解説した。

橋野町荻の洞にある「古里嘉惣治、小屋野十三郎三百年忌の大碑」。1964(昭和39)年建立。地元では50年ごとに2人の追善供養が行われている
佐々木さんによると、里宮の不動三尊像は制作地や年代が判明していることから文化財としての価値も高いという。長い年月の中で素人による色の塗り直しなどがあり、本来の姿を取り戻すため、佐々木さんが中心となって京都の専門業者に修復を依頼。現在、作業が進行中だという。
別当の菊池さんは、2023年に亡くなった母ヨシヱさん(享年92)が望んでいた像の修復が実現したことに深く感謝。「母は信仰心がとても強く、神社のことを一生懸命やっていた。像修復の夢がかなって安心しているだろう。自分も改めてその歴史を知り、しっかり守っていかねばとの思いを強くした」と話した。

新たなシーズンへスタートダッシュ!日本製鉄釜石SWの選手ら
NTTジャパンラグビーリーグワン2部の日本製鉄釜石シーウェイブス(SW)は4日、今季の練習を始めた。トウタイ・ケフ新ヘッドコーチ(HC、51)のもと、「変化のシーズン」が始動。新加入の4人を含む選手43人は接戦をものにできなかった昨季の悔しい結果を糧に、あと一歩の試合を「勝ちきるチーム」としてレベルアップを図る。
練習の開始前に、釜石市甲子町のクラブハウスで記者会見し、新体制を発表した。桜庭吉彦ゼネラルマネジャー(GM)、坂下功正総監督、ケフHCが出席。桜庭GMは「昨季は8位だったものの、競ったゲームも多かった。観客数はわずかだが増やすことができ、努力の結果」などと振り返りつつ、新HCの就任に「変化のシーズン。プラスのエネルギーに変え、いい結果につながれば」と奮起を促した。

シーズン始動会見に臨む(左から)坂下功正総監督、トウタイ・ケフ新HC、桜庭吉彦GM
チームは昨季、8チーム中最下位(2勝12敗)で終え、3部との入れ替え戦(2勝0敗)で2部残留を決めた。坂下総監督も「僅差で競り負ける試合が多かった。勝てるゲームを落とした」と指摘。タフHCに「勝てる」チームづくりを託し、「戦う気持ち、ラグビーに対する熱い思いを選手たちに落とし込んでほしい」と期待する。新体制にわくわく感をにじませるも、今季の目標は未決。8月中は選手、チーム全体の見極め期間とする考えだが、中長期目標の「2部優勝」は変えずに据え置く。
GM、総監督の声を受け、ケフHCは静かに口を開いた。「歴史と伝統が豊かなチームと聞く。今まで培ってきたプレーを続けながら改善を加え、より良いものにしていきたい。これからの挑戦が楽しみ。接戦を勝ちきる力を積み上げれば、上位で終われるはず。サイドを使ってワイドに展開する試合を目指す」と方針を示した。

釜石での挑戦へ意気込みを話すトウタイ・ケフ新HC
ケフHCはトンガ生まれ、国籍はオーストラリア。現役時代はオーストラリア代表で活躍し、60キャップを誇る。トップリーグ時代のクボタスピアーズでもプレーした。引退後は指導者としてトンガ代表やスピアーズでコーチを歴任。昨季は、釜石と同じ2部の花園近鉄ライナーズのFWコーチを務めた。世界最高峰のステージでプレーしてきた経験に加え、日本ラグビーを理解、熟知しており、「しっかりとした指導経験もあり、SWを未来に向けて指導していける人材」と桜庭GM。今回のHC就任には、2季続けて2部で最下位となった釜石を浮上させることが期待される。
釜石の印象は「粘り強くタフ、諦めないチーム」とケフHC。熱烈なサポーターの存在も認識し、「ファンとのつながりを保ち、誇りに思ってもらえるようなプレーを見せたい」と意気込む。
会見では、HOルル・パエア(22)、LOコナー・セヴェ(23)、SH岡新之助タフォキタウ(31)、CTBパウラ・マヘ(24)の4選手の加入も発表。この日、練習を開始した岡選手は国内チームからの移籍で、「釜石の一員になれることをうれしく思う。ファンの皆さんの前でプレーすることが待ちきれない」とコメント。トンガ出身でルーマニアのクラブでプレーしてきたマヘ選手は「日本でプレーできることがうれしい。チームの力になれるよう頑張る」とメッセージを寄せた。

新加入の4選手を発表。力強いプレーへ期待を示した
プレシーズンマッチは9~10月にホームの釜石鵜住居復興スタジアムで2試合を予定。9月20日は「ラグビッグドリーム~釜石絆の日~」のメインゲームとして1部の静岡ブルーレヴズ、10月25日にはIBC杯ラグビー招待試合として3部の狭山セコムラガッツと対戦する。

シーズン初練習を公開。与えられたメニューをこなす選手たち

鼓舞、サポートし合いながらチームづくり。ケフHC「まず、コネクションを築く」

いざ前へ!12月開幕のリーグ戦に向け徐々にペースを上げる
リーグ戦は12月13日に開幕する。

第49回全日本クラブ野球選手権岩手県予選で準優勝し、東北大会に出場する「釜石野球団」=写真:同団提供
釜石市の社会人硬式野球チーム「釜石野球団」(佐藤貴之監督、36人)は、9日に福島県で開幕する第49回全日本クラブ野球選手権第二次予選東北大会に、岩手第2代表として出場する。同大会での東北大会進出は2年連続。昨年逃した初戦突破を果たし、上位入りを狙う同団は、モットーの“楽しく勝つ”野球で新たな歴史を刻もうと気合十分。大会まで1週間を切った3日は滝沢市のチームと練習試合を行い、最終調整を図った。
同大会の本県予選大会は6~7月にかけて行われ、19チームが参加した。釜石野球団は2回戦を11-3(対遠野クラブ)、準々決勝を5-2(対オール江刺)、準決勝を5-4(対久慈クラブ)で勝ち進み、31年ぶりの決勝進出を成し遂げた。決勝の相手は一昨年の東北大会覇者、水沢駒形野球倶楽部。昨年の準決勝で敗れているチームだけに「今年こそは」と挑んだが、0-6で敗れ準優勝。それでも上位3チームに与えられる東北大会出場権を獲得し、2年連続の進出を決めた。
同団は20~30代の若手が主力。釜石出身、在住のメンバーが多いが、チームの雰囲気の良さやレベルの高さに引かれ、他地域からの加入も。定期練習は毎週水曜夜に行っているが、仕事や居住地の関係で人数がそろうことは少なく、各自で自主トレーニングを重ねながら力をつけている。

3日、釜石・平田公園野球場で行われた滝沢市のMKSI Baseball Clubとの練習試合

笑顔で東北大会前の調整に励む釜石野球団の選手ら

この日の先発は今季新加入の廣崎真樹投手(左)。投手陣には新たに3人が加わりパワーアップ
今年は他チームからの移籍も含め9人が新たに入団。廣崎真樹選手(31)ら投手3人が加わったことで安定的なバッテリーが組めるようになった。チームの強みは打撃。“頼れる主砲”菅原昌也選手(27)は、今季も大会本塁打2本を放つなど長打の要。攻撃の起点リードオフマンとして期待されるのは乙津広大(27)、西澤直史(30)両選手。加えて今季、打撃が好調な小笠原雄聖選手(29)と、選手層の厚さでチームの得点力に磨きがかかっている。

長打力が最大の武器、菅原昌也選手は今季も打撃の中心として力を発揮

リードオフマンとして活躍が期待される乙津広大選手(左)と西澤直史選手(右)

県大会決勝では大事な場面で2安打を放った小笠原雄聖選手
入団4年目の小笠原選手は、佐藤監督(56)いわく「追い込まれても粘りのバッティングでチャンスをつかむアベレージヒッター(巧打者)」。自身は「やっとみんなに追い付けた感じ」と控えめながら、「下位打線にいることが多いので、何らかの形で次につなげたい」と役割を全うする。今季は「特にもみんな勝負強い。大事なところでやるべきことをやっている」とし、3日の練習試合でも打線のつながりの良さを実感していた。
守備の要は二塁手の三浦一樹(30)、遊撃手の伊藤康生(24)両選手。入団3年目の伊藤選手は試合中の積極的な声掛けが光る。「声を出して楽しく…がチームのモットーでもあるので」。昨年の東北大会では他チームのレベルの高さを感じつつも、「勝てなくもない」との感触も得た。「強豪が集まるが、食らいついて一つでも多く勝ちたい。守備からリズムを作って、1点勝負に持っていくような僅差の戦いができれば勝機はある」とみる。

球際の強さ、元気な声掛けでチームを支える伊藤康生選手

3日も厳しい暑さが続いた釜石。選手らは水分、塩分補給など熱中症対策もしながら練習に励んだ
練習試合では新戦力の活躍も。久慈市出身の見年代星七選手(23)は地元へのUターンを機に釜石野球団に入団した。外野手だが、同郷の先輩団員から投球を教えてもらっていたことで、この日は投手としてもマウンドに。東北大会出場のタイミングで入団できたことに「すごくラッキー。もし、試合に出る機会があれば俊足を生かして得点にからんでいきたい」と気持ちを高ぶらせた。

期待の新星、見年代星七選手は久慈市から新加入。投手としての能力も開花?!
同大会は全国の硬式クラブチームが頂点を目指す最も大きな大会。昨年、27年ぶりの東北大会進出を果たした釜石野球団は「連続出場しなければ強さを証明できない」と、さらなる精進を重ねてきた。「みんな、勝ちたいという思いは強い。まずは打ち勝つこと。打って点を取ることが大事」と10年目の菅原選手。昨年の東北大会は福島第2代表のチームに9-6で敗れた。「得点力は申し分ない。あとはいかにエラーなどのミスを減らせるか」。最終目標の全国大会出場を脳裏に描きながら、チームの進化を望む。

チームを率いる佐藤貴之監督(左上)は選手の力を最大限発揮できるようメンバー構成

「一戦必勝!」 2年目の東北大会出場に心を躍らせる釜石野球団メンバー
東北大会には6県から10チームが出場する。釜石野球団の初戦は9日午前8時半から、しらさわグリーンパーク(福島県本宮市)で行われる。相手は福島第3代表のALL北嶺。全国大会には上位3チームが出場できる。

釜石消防署員と一緒に放水を体験する小学生
小中学生の防災意識を育てようと、釜石市少年消防クラブ(会長・小林太釜石消防署長、10校)の消防体験学習が7月26日、同市鈴子町の釜石消防署で開かれた。5回目の今回は児童15人が参加。消火や救助活動を体験しながら身の回りの防災や有事の際の対応について理解を深めた。
同クラブは、防火・防災思想の普及を図ることを目的に全国各地で結成されている防災組織。釜石では火災予防や防災に関する知識、身を守る技術の習得と合わせ、将来の地域防災の担い手の育成を狙いに、2017年に取り組みが始まった。
釜石署管内の学校単位で組織され、発足時は6校(小学校5校、中学校1校)だったが、18年に4校(全て小学校)が加わった。25年4月1日現在、計10校の児童生徒約1300人が所属。火災予防ポスターの作成、着衣泳など水の事故防止を学ぶ水上安全訓練、救急救命講習など消防署や関係機関の力を借り、各校で取り組んでいる。

釜石消防署で行われた体験学習の参加者。ビシッと敬礼
この日の消防士体験のスタートは格好から。実際に火災現場で装着する重い防火服、特殊ヘルメットを身に着けたり、敬礼を教わったりした。空気呼吸器の装着体験も。消防署員が手を離すと、子どもたちはよろめき、10キロほどの重さを肩や背に感じていた。

防火服を着て空気呼吸器を背負って重さを体感
消防車両や釜石署の訓練棟を利用し初期消火、煙体験、はしご車の試乗などを実施。ヘルメット着用した小学生を消防士、救急救命士ら署員約10人がサポートした。
ポンプ車による消火体験では、消防ホースでの放水に挑戦。署員に支えられながら放水ノズルを操り、勢いよく水が飛び出すと子どもたちは笑顔を見せた。山火事の時などに使用する背負い式水のう「ジェットシューター」を使った放水も体験。今春に大船渡市で発生した大規模山林火災の現場でも活躍したとの説明を真剣な表情で聞いた。

消火体験はホースを伸ばし、ノズルを装着したり準備が必要

消防署員のサポートを受けながら放水を体験する子どもたち

背負い式の消火水のう「ジェットシューター」の操作体験
高さが35メートルまで伸びるはしご車は、市内のほとんどの建物の消火、救助活動に対応できる。児童らは先端のバスケットに署員と2人ずつ乗り込み、高さ15メートルまで上昇。余裕の子どもたちは地上で見守る友達や家族に自慢げに手を振った。

消火や救助の現場で活躍するはしご車の搭乗体験

はしご車の試乗や写真撮影を楽しむ参加者
釜石署に配備されている救急車3台のうち2台に電動ストレッチャーが装備されている。指1本によるボタン操作で、自動での上げ下ろしができる仕様。男性署員が3人がかりで対応していたようなケースも「女性署員でも持ち上げられる」という。2年連続で参加した女子児童は消防士を将来の仕事として視野に入れていて、黙々と体験をこなしているようだったが、感想を聞くと「楽しい」とはにかみながらうなずいた。

救急車の装備を見たり消防車両に乗って走行体験もした

訓練棟での煙体験。しゃがんで煙の濃さを確かめた
参加者の中には家族が釜石署で働いているという子も。小学1年の佐々木晴太郎さん(6)もそんな一人で、「お父さんの仕事を見たかった」。一緒に放水を体験したりし、「(お父さんは)かっこよかった。大変そうだと思ったけど楽しかった」とうれしそうに話した。
釜石署予防係の佐藤直樹係長は「体験を通じて消防の仕事や防災について興味を持ってほしい。クラブでの経験を生かして将来、一緒に働いてもらえたら」と、子どもたちに呼びかけた。

少年消防クラブの児童が作成した防火ポスター
同クラブの取り組みとして防火ポスターコンクールの参加があり、市内の児童が寄せた約100点の作品をイオンタウン釜石(同市港町)で展示している。夏は、花火やバーベキューなど屋外で火を取り扱う機会が多くなることから、市内では夏季火災予防特別警戒を実施中。その期間に合わせ8月20日まで作品を見ることができる。

「魚、とるぞー!」特設いけすに足を踏み入れる子どもら=甲子町松倉
釜石市甲子町の松倉町内会(佐野賢治会長、550世帯)行事「魚のつかみどり」が26日、甲子川で行われた。夏休みに入ったばかりの子どもたちと保護者ら約150人が集合。県立釜石高裏、松倉橋そばの浅瀬に設けた特設いけすにヤマメとイワナ計約400匹が放たれ、参加者が“今晩のおかず”を求めて魚を追いかけた。
同行事は地域の宝である甲子川の魅力に触れながら、子どもたちに夏休みの楽しい思い出を作ってほしいと同町内会が企画。2006年から始まった夏の恒例行事は、今回で通算17回目となった。甲子小PTA北松倉こども会(佐野智恵子地区長)、同南松倉こども会(千葉慎吾地区長)が共催する。
前日に網を張って作った特設いけすに放たれたのは、両石町の千丈ヶ滝養魚場から購入したヤマメ約250匹とイワナ約150匹。幼児から年代ごとに分かれて川に入り、つかみどりに挑戦した。子どもたちは素早く泳ぎ回る魚に四苦八苦。それでも囲いの網沿いに追い込むと、タイミングを見計らって両手でぎゅっとつかんだ。

水中に目を凝らし魚の動きを追う。そーっと手を伸ばして…

わが子の奮闘を収めようと、周辺では親たちがスマホカメラを向けた

体長20センチ以上のヤマメとイワナ。つかみ応えもありそう

「やったー!とったよ」満面の笑顔を見せる子ども
一人3匹とれたら終了。制限時間約15分でつかまらない場合は、たも網に入れた中から魚をとってもらった。つかみどりの前後には生き物を探したり泳いだりと、きれいな川を存分に堪能した。熱中症対策として参加者には飲料2本も支給された。
甲子中2年の小笠原采己さんは“古参”の友人3人に誘われて今年初めて参加。「魚がすごくすばしこくて…。ぬるぬるして素手では難しかったので軍手を借りて何とかつかまえられた」と満足げ。友人の千葉倖志さん(同2年)は渓流釣りで普段から同河川に親しむ。「甲子川は間違いないです。最高」と魚資源の豊富さに太鼓判。「自分たちにとっても大事な川。ごみとか見つけたら積極的に拾ったりしてきれいにしていきたい」と愛着をにじませた。仲良し4人組は「この後、みんなで焼いて食べます」と、ゲットした川魚に満面の笑みを広げた。

足元に魚はいるものの…すばしこい泳ぎに苦戦

今晩のおかずゲット! つかんだ魚を家族が持つビニール袋へ

「みんなで食べるの、楽しみー!」地元の中学男子4人組

昔、この辺りは深さがあり、夏になると大人たちが石を組んで天然プールを作ってくれたそう…(佐野会長談)
酷暑やクマの出没などで外出もままならない中、迎えた今年の夏休み。南松倉こども会の千葉地区長(42)は「子どもたちの生活がいろいろ制限される中、こうして自然と触れ合える機会は大変貴重。楽しそうな姿を見ると、親としてもうれしいもの」と顔をほころばせる。自身も甲子出身。「自分たちが子どもの頃は川にも自由に入って遊べた時代。懐かしい思い出だが、今は(子どもだけの)川遊びは基本的に禁止。残念ではあるが…(時代の要請なので)」と受け止める。
同町内会のもう一つの夏行事「盆踊り大会」は8月16、17の両日、午後7時から甲子公民館前で行う。今年も豪華景品が当たる抽選会を予定する。

【P1】
釜石納涼花火2025
【P2-3】
釜石はまゆりサクラマスフェア
【P4-5】
イベント案内 他
【P6-7】
ツキノワグマの被害に遭わないために
8月の粗大ごみ収集予約受付のお知らせ 他
【P8-9】
教育広報「いのちの教育」を推進しています
【P10-11】
まちのお知らせ
【P12】
第34回釜石よいさ

釜石市
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高台の市道から潮位の変化を見つめる住民ら=30日午前10時50分ごろ、鵜住居町根浜
7月30日午前8時25分ごろ発生したロシア・カムチャツカ半島付近を震源とする巨大地震で、日本の太平洋沿岸などに出された津波警報と注意報。本県では午後8時45分に警報から注意報に切り替わり警戒が続いていたが、31日午後4時30分に注意報は解除された。釜石港でこれまでに観測された津波の最大は、30日午後2時13分の50センチ。津波の影響による潮位の変化はしばらく続く可能性があり、引き続き注意が必要だ。
マグニチュード8.7と推定される今回の地震。釜石市では揺れを感じない状態で突如、鳴り響いた防災行政無線のサイレンに緊張が走った。同市では気象庁が午前8時37分に発表した津波注意報を受け、浸水想定区域に避難指示を発令。午前9時40分に注意報から警報に警戒レベルが引き上げられると、対象範囲を拡大した(6362世帯、1万1382人)。市内の小中学校など6カ所に避難所が開設され、最大で計1531人が避難した。
市の緊急避難場所、拠点避難所に指定されている鵜住居町の鵜住居小・釜石東中には注意報の発表後、地域住民や地区内で働く人などが続々と避難してきた。同地区生活応援センターと学校が連携し避難所を開設。通常は体育館が避難所となるが、厳しい暑さのため、エアコンが設置されている各種教室などを開放し、避難者を受け入れた。同所には最大で373人が避難した。

避難所が開設された釜石東中校内。子どもから高齢者まで多くの人が避難した

避難者は警報の早期解除を願いながらエアコンのある部屋で待機
川沿いにある双日食料水産は、ベトナム人技能実習生18人を含む70人が同校に避難。注意報発表時は始業時間と重なり、点呼などを経て午前10時前には避難を開始した。東梅拓也工場長は「年1回、避難訓練を実施しており、みんな落ち着いて行動できた。従業員は東日本大震災の津波経験者が多いので防災意識は高い」と話した。学校近くの復興住宅に暮らす70代と80代の女性は「全然揺れないで、急にサイレンが鳴ったのでびっくり。暑い時の避難は大変。長い階段を休み休み上がってきた」と涼しい部屋でしばし休憩。「何もなく、早く(警報が)解除されれば」と願った。
鵜住居町根浜地区では旅館や観光施設の従業員らが客を帰した後、津波到達予想時刻の午前10時半前に高台避難を完了。震災後に造成された海抜20メートルの復興団地内の集会所に身を寄せた。岸壁で作業中だった漁業者も即座に高台へ。地区住民らは自宅待機し、テレビなどで情報収集した。

震災後に整備された根浜復興団地内の集会所に避難した人たち。テレビやスマホで情報収集
同地区では7月28日から国内外の中高生ら13人がリーダー育成プログラムのキャンプ中だった。14年前の震災の教訓を学ぶのも目的の一つ。津波注意報発表時は、海辺でのライフセービング体験に向かう直前だった。岡﨑律さん(高3、東京都)は「津波について学んでいる最中だったので、より恐怖を感じ、他人事ではないと思った。避難の不安もあったので、実際の災害を想定して家の備蓄品や持ち出し品を確認しなければ」と気を引き締めた。佐々夏希さん(高1、同)は「初めての経験でちょっとパニックになり、右往左往するところがあった。想定外のことにも一旦冷静になり、対処することが大切。日頃から訓練しておきたい」と学びをさらに深めた。4泊5日のプログラムは一連の影響で変更を余儀なくされた。

グローバルリーダーシッププログラムのキャンプで釜石を訪れた中高生らは根浜MINDの佐々木雄治さんから東日本大震災の被災状況なども学んだ

津波警報の発表で国道45号は通行車両も激減。午後からは通行止めの区間も。市内の商業施設は警報解除まで営業を見合わせた

避難者に非常食の缶パンを配る釜石東中の生徒=30日午前
鵜住居小・釜石東中の避難所開設で今回、大きな力を発揮したのは、釜石東中(高橋晃一校長、生徒86人)の生徒36人。夏休みの部活で登校していた1、2年生らが、避難者の案内や食料の配布、困りごとの聞き取りなど精力的に活動し、長丁場となった避難所運営を支えた。今年1月に生徒会が中心となって自主防災組織(自主防)を立ち上げた同校。日頃の学びや訓練の成果が生かされた。
7月30日、生徒らは午前8時半ごろから、部活の活動場所となっていた学校近くの市民体育館で準備を進めていた。ほどなくして津波注意報のサイレンが…。生徒らはすぐさま、高台の学校へ避難。避難者が増える中、避難所開設の必要性が高まり、教職員の指示のもと受け入れを開始した。エアコンがある図書室や音楽室など4室を開放。入り口で受付を済ませた避難者を生徒らが各部屋に案内した。
昼前には、校内に設置されている市の防災備蓄倉庫から飲料水と非常食の缶パンなどを運び出し、避難者に配布。トイレットペーパーの補充、段ボールベッドの組み立てなども行い、校内を回りながら避難者の困りごとを聞いた。熱中症対策や感染症予防を呼びかける校内放送も生徒が担当。地元製パン業者が差し入れたパン、夕食用に市から配送された非常食カレーなどの配布も手伝った。

生徒らは鵜住居小の教室にも飲料水や非常食を届けた

避難者の案内、御用聞きも行い、運営をサポート。写真右上は校内放送の呼びかけ文の一部
現1、2年生は実際の避難所開設、運営にあたるのは初めての経験。2年の板澤莉琉さん、旦尾歩暖さんは「最初は落ち着かなかった。みんなそわそわして…。でも『避難所、やらなきゃないのでは』との声も多かった」と、注意報から警報への時間帯の仲間の様子を振り返った。1年の新屋碧さん、小國怜義さんは「困っている人には積極的に話しかけ、要望などを聞いている。少し不安もあるが、互いに声をかけ合って頑張っている」とし、「また同じようなことがあったら、今回の経験を生かしたい」と意を強くした。

小学生に教えながら段ボールベッドも組み立てた

差し入れのパンの種類と数を記録する手伝いも
同校では4月に防災オリエンテーションを実施。その後も小中合同の下校時津波避難訓練のほか、朝活動での防災意識向上を図る取り組みを続けている。高橋校長は「日常的に防災に特化した活動をやっているので、生徒たちはスムーズに動けたのではないか。これまでの学びがしっかり身に付いている」と活動の成果を実感。また、「市の対応にはなるが、防災備蓄倉庫の物品の補充、更新など定期的な点検も必要と感じた」と今後の課題も示した。この日は警報から注意報になった時点で、市教委から生徒の保護者への引き渡しの指示があり、午後10時ごろまでに学校にいた全生徒が帰宅に向かった。