戦争体験者・秋元厚子さん(唐丹)鮮烈な記憶語る ユネスコ協会・図書館が講話会
自身の戦争体験を語った唐丹町の秋元厚子さん
釜石ユネスコ協会(岩切久仁会長)は釜石市立図書館(川畑広恵館長)と共催し、3日、「戦争講話と朗読の会」を小佐野町の同館で開いた。県協会として取り組む「平和月間」行事の一環。釜石協会顧問で、唐丹町出身・在住の秋元厚子さん(87)が自身の戦争体験を語ったほか、釜石の戦災を伝える紙芝居、体験記の朗読が行われた。戦後77年―。海外ではロシアによるウクライナ侵攻終結が見えない中、戦争体験者の声は来場者らに重く響いた。
秋元さんは小学5年時に太平洋戦争を経験。唐丹村立国民小学校で「日本は神の国」と指導を受け、村を挙げて出征兵士を見送った。国のために米や鉄製品も供出。敵機が頻繁に飛来するようになると、自宅庭に穴を掘って作った防空壕(ごう)へ避難。低空飛行する戦闘機の影が壕入り口の隙間から見え、恐怖におののいたという。
終戦間際の1945年7月14日、同市は米海軍の艦砲射撃を受けた。釜石沖からの攻撃に防空壕は危険と判断した父の指示で、近くの山に逃げた。母は当時2歳の妹を抱いていた。「声を出すと敵機に見つかる、赤ん坊は泣かせるなと言われ、とにかくみんな無言でじっとしているしかなかった」と秋元さん。釜石には高射砲隊もいたが、「敵に(砲弾が)当たった様子はなく、失望した」という。
日中戦争を経験していた父は家族に避難を促すも、自身は決して家から離れなかった。結核を患い、病床にあった長兄も動こうとしなかった。「父親は元兵士のプライド、兄は『同年代の人たちが戦っているのに自分だけ逃げることはできない』という思いがあったのだろう。兵役に行けないことがどんなにか屈辱だったのではないか」。兄が寝ていた枕元には砲弾が刺さっていたこともあった。
戦況が厳しさを増す中、秋元さんら子どもたちは祖母と一緒に、小白浜の自宅から山間部の荒川の借家に避難。敵の攻撃を避け、片道2時間の夜の山道を歩いて移動した。「宝石を散りばめたようにホタルが光っていた」ことが記憶に残る。
8月15日の終戦―。秋元さんら家族は自宅のラジオで玉音放送を聞いた。「子ども心に日本は絶対負けないと思っていたが、負けてしまった。大きな衝撃だった」。その後、日本人は殺されるという噂が聞こえてきて、さらに不安は増した。
「戦争のことだけは頭から消えない」と秋元さん。現役時代は市役所に勤務、52歳から5期20年間市議を務めたが、これまで一般市民の前で自身の戦争体験を語ることはなかった。「(戦争への)関心が薄れてきているのは確か。伝えなければ」と、今回を好機と捉える。
艦砲射撃で教え子を亡くした石橋巌さんが制作した紙芝居の朗読。34人が聞き入った
元釜石高等女学校生徒が寄稿した戦争体験を朗読
講話の後、読書サポーター颯・2000のメンバー2人と同図書館長による朗読も行われた。釜石が受けた艦砲射撃の悲惨さを伝える紙芝居「私の昭和20年7月14日」=石橋巌/作、遠野市に集団疎開した釜石高等女学校生徒の証言書簡集「八月のあの日 乙女たちの仙人越え」=箱石邦夫/編から6編を語り聞かせた。この日は、編者で、釜石南高勤務時に生徒たちと当時の女学生から体験記を集めた元教諭の箱石さん(81、盛岡市在住)も駆け付け、講話と朗読に聞き入った。
書簡集編者の箱石邦夫さん(前列右から2人目)
釜石新聞NewS
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