コロナ禍脱却へ「釜石の歴史を学ぶ会」活動再開 郷土資料館・津波企画展を見学
学習会を再開した「釜石の歴史を学ぶ会」の会員ら=18日、市郷土資料館
市民活動グループ・釜石の歴史を学ぶ会(柴田渥代表、20人)が、新型コロナウイルス禍で休止していた活動を再開。18日、釜石市鈴子町の市郷土資料館(藤井充彦館長)で開催中の企画展「先人に学ぶ復興―昭和三陸地震津波から90年」を見学し、同市の津波災害と復興の歴史に理解を深めた。新年度から月1回の定例学習会を復活させる予定で、会員らは学びへの意欲を高めている。
同会は2016年5月から活動。幅広い分野で郷土の歴史を学ぼうと月に1回集まり、郷土資料館での学習、市内の史跡見学、専門家の講話などで知識を深めてきた。コロナ禍で会員が集まっての学習を控えていたが、感染症も収束傾向にあることから活動再開を決めた。
市郷土資料館で開催中の企画展を見学する会員ら
18日は12人が参加。郷土資料館の津波企画展を見学し、同館の佐々木寿館長補佐から話を聞いた。話題に上ったのは、釜石・大槌の津波記録文献の復刻を手掛け、防災教育にも取り組んだ故上飯坂哲さん(2009年逝去、享年71)の功績について。
小学校教諭だった上飯坂さんは大槌町の吉里吉里小校長在職中に、1896(明治29)年の大津波について当時の校長が記した記録の存在を知り、子どもたちにも読ませたいと復刻に取り組んだ。退職後に務めた釜石市の鵜住居公民館長時代には、市内各地に残る津波資料の文献を次々に復刻。2005年に同公民館長を退任後、津波防災の重要性を伝えたいと、自身の考えをまとめた「津波てんでっこ考」を執筆、自費出版した。後に釜石東中から津波講話の依頼があり、これを機に子どもたちに教える活動も始めた。
上飯坂哲さんが書いた「津波てんでっこ考」を紹介する佐々木館長補佐(右)。企画展では上飯坂さんが復刻した複数の津波記録誌も展示(左)
2011年の東日本大震災発生時には、釜石東中、鵜住居小の児童生徒が率先した避難行動で迫り来る大津波から逃れ、自らの命を守った。「上飯坂さんの活動は釜石の津波防災教育のはしり。残した功績は非常に大きい」と佐々木館長補佐。震災後、同著に関する問い合わせも多数あったという。市教委は14年に、上飯坂さんの家族の協力を得て同著の復刻版を発行している。
学ぶ会の柴田代表(76)は「地元に住んでいてもまだまだ知らないことは多い」と実感。こうした学びの機会は新たな気付き、古里への興味を引き出すきっかけにもなるといい、「細く長く活動を続け、若い世代にも何か刺激を与えられたら」と生涯学習への意欲を示した。
昭和の三陸大津波から90年― 先人の復興を学ぶ 郷土資料館で5/7まで企画展
郷土資料館企画展「先人に学ぶ復興―昭和三陸地震津波から90年」
昭和と平成の時代に三陸を襲った大津波はくしくも同じ3月の発生。市郷土資料館が毎年この時期に開催する津波に関する企画展では、さまざまな視点で同市が受けた津波災害の歴史を掘り下げている。今回は「先人に学ぶ復興」をテーマに、発生から90年となる昭和の津波の被害状況や復興の歩みにスポットを当てた。
1933(昭和8)年3月3日午前2時31分に起こった昭和三陸地震津波。本県沖を震源とするマグニチュード8.1の大地震が発生し、その後の津波で3千人以上が犠牲となった。市内で被害が大きかったのは釜石町嬉石・松原、唐丹村本郷、鵜住居村両石(町村=当時)。ほとんどの家屋が流失し、本郷では人口の半分以上が犠牲となった。
被災の惨状をいち早く伝える当時の新聞=郷土資料館所蔵
驚くのは当時の復興の速さ。1カ月後、中心市街地にはバラックの建物が建ち始め、漁港も応急修理が施された。翌34(昭9)年には釜石港が東北最初の国際港として開港し、税関支署などの諸官庁が設置されていった。釜石町は人口が4万人を超えた37(昭12)年、県内で2番目に市制を施行。釜石製鉄所繁栄の勢いがまちの復興を後押ししていったと考えられる。
昭和9年1月に開港した釜石港の1周年を記念して発行された絵はがき。復興した魚河岸付近を撮影した写真が印刷される
企画展では当時の小学校が中心となって残した記録集(故上飯坂哲さん復刻)を基に、各地の被害状況を写真やパネルで伝える。発災直後の新聞記事、唐丹村役場の救助者名簿、復興工事に関わる契約設計書も。港近くの復興後の街並み写真が印刷された釜石港開港記念の絵はがき、市制施行の稟議書や記念品なども並ぶ。企画展は5月7日まで(火曜日休館)。
釜石新聞NewS
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