「古里は心のよりどころ」釜石出身、アルゼンチン在住の造園技師 猪又康夫さん映画撮影で帰郷
映画撮影のため帰郷した猪又康夫さん(左から2人目)、長男圭悟さん(同3人目)、フェルナンド・クラップ監督(左)らスタッフ
釜石市出身で、南米アルゼンチンに渡り、日本の造園術を広めた猪又康夫さん(84)が自身の人生を描くドキュメンタリー映画の撮影で10月下旬、6年ぶりに帰郷した。首都ブエノスアイレス市の日本庭園を設計、施工するなど、同国の街並みに唯一無二の空間を生み出してきた猪又さん。日本を離れて半世紀以上になるが、古里釜石は今も心のよりどころ。今回の訪問で、旧友との再会や子どものころから慣れ親しんだ景色に力をもらい、生涯現役に意欲を燃やす。
同映画は、日本人移民の著書を執筆したフェルナンド・クラップ監督が猪又さんの人柄とエネルギーに魅せられ、数年かけて口説き落とし、撮影が実現した作品。猪又さんがアルゼンチンで手掛けた仕事や歩んできた人生を紹介するほか、日系社会や両国の関係性について本人の視点で浮き彫りにする。アルゼンチン映画協会が制作を支援する。
猪又さんと長男圭悟さん(44)はクラップ監督ら制作スタッフ3人と来釜。26日午前は漁船に乗っての釜石湾内周遊、午後には鉄の歴史館見学や市広報のインタビュー取材を受ける様子などを撮影した。
職員の案内で鉄の歴史館を見学する猪又康夫さん
インタビュー取材を受ける様子をスタッフが撮影
自身の人生について語る猪又康夫さん(釜石市出身、アルゼンチン在住)。撮影:市広聴広報室
猪又さんは1938年生まれ。父と兄は製鉄所勤務で、上中島町に暮らした。釜石高から東京農業大に進み、造園を学んだ。叔父は中国で活躍した造園技師で、その仕事を写真で目にしたのもきっかけだった。大学卒業後は北海道札幌市の造園会社に勤め、技術を磨いた。忙しい日々の中、「行き先が決まった人生は歩みたくない」とゼロからの出発を決断。27歳の時に、アルゼンチンで成功した札幌出身の花き栽培業者の呼び寄せで渡航した。
ブエノスアイレス北部のエスコバル市に住み仕事を受け始めたが、当時、日本庭園の魅力を知るのは戦後、開拓で渡った日本人移民だけ。それでも「造って見せないことには誰も信用しない」と、日本で培ったさまざまな技術を駆使し実績を積んでいった。その実直な仕事ぶりや優れた技術は次第に現地の人たちの注目を集めていく。
69年、エスコバル日本人会の依頼で入植記念の日本庭園を完成させた。78年には在亜日本人会から依頼されたブエノスアイレス日本庭園の大規模改修、拡張工事を完了。パンアメリカン高速道路の拡張工事に伴う大木1080本の移植も実現した。エスコバルで毎年行われる国定花祭りでは、大展示場装飾の総監督を50年余り続けている。公共の仕事のほか私邸の造園も行ってきた。2020年には日本文化の普及、在留邦人、日系人への福祉功労で、日本の叙勲「旭日双光章」を受章。アルゼンチン岩手県人会長も務めた。
猪又さんが手掛けた「エスコバル日本庭園」。写真提供:小木曽モニカさん(日本ロケコーディネーター・通訳)
多くの観光客でにぎわう「ブエノスアイレス日本庭園」。写真提供:清水尚子さん(同)
渡航から56年―。己の造園道を貫き、異国の地で確かな足跡を残してきた猪又さん。「子どもたちには苦労をかけたが、なんとかやってきた。商才がないんですね。ただ、文化としての日本庭園は種をまいた。家族には金は残せなかったが、心の財産は残せたと思っている」。
古里釜石の豊かな自然、美しい景色は造園にも生かされる。「意識はしていないが、幼いころから見たものはやっぱり目に焼き付いているのだろう。自然に絵に浮かんでくる」。自身にとってのもう一つの宝は地元の友人ら。今回のロケでも船や車の手配など全面的な協力をもらった。「遠く離れていても気持ちはつながっている。ありがたい」。
猪又さんの友人(左)が漁船を出し、海上での撮影も。写真提供:清水さん
震災後の釜石の海景色を目に焼き付ける猪又さん(左)。写真提供:清水さん
造園は自らの人生そのもの。「体は使えなくなってきたが、仕事がくる間は監督、設計は続けていく。これしかできないから。死ぬまで変わらないと思う―」。仕事への情熱は尽きることがない。
猪又さんを追った映画のアルゼンチンでの公開は来年後半を予定する。「日本、釜石でもぜひ公開したい」と撮影陣。現在、制作のためのクラウドファンディングも展開している。
URL : https://readyfor.jp/projects/jardinjapones
釜石新聞NewS
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