「失敗の鉄学」謎を解き明かす〜「背景には政治的理由も」鉄の歴史館 小野寺名誉館長
講演する小野寺英輝名誉館長
近代製鉄発祥の地・釜石で明治時代に操業した官営釜石製鉄所は、なぜ、わずか3年で廃止されたのか―。その謎を解き明かす講演会が9日、釜石市大平町の市立鉄の歴史館で開かれた。同館の小野寺英輝名誉館長(岩手大理工学部准教授)が鉄の記念日行事として講演。市民ら約20人が聴講した。
昨年は同製鉄所の創業140周年にあたり、市は同館で特別企画展「失敗の鐵(てつ)学」を開催。さらなる学びの場として「官営製鉄所の操業挫折―過失?故意?」と題した講演会が企画された。
同製鉄所は明治政府工部省が行った全国の鉱山の官営化に伴い、現釜石市鈴子町、日本製鉄構内に建設され、1880(明治13)年から操業を開始した。
沿岸部への立地は大橋採掘場、小川製炭場から釜石港までを結ぶ「工部省鉱山寮釜石鉄道(26・3キロ)」が整備されたことで実現。山間部から鉄鉱石、木炭などを大量輸送でき、製造した鉄を船で搬出しやすい場所が選ばれた。大橋、橋野高炉は建物が木造だったのに対し、官営はれんが造り。近代化の先駆けが釜石にあったことをうかがわせる。
官営の25トン高炉は平均一日約15トンを出銑し、操業自体に大きな問題はなかったが、製炭場や山林の火災で木炭供給ができなくなり、1年余りにわたり操業を休止。木炭の準備が整った後再操業するが、炉内の「鉱滓凝結」で湯口が閉塞して出銑できなくなり、そのまま廃業の道をたどる。
小野寺名誉館長は複数の報告文書から、同製鉄所の失敗原因を考察。「高炉形状の不適合、鉱石の焙焼(ばいしょう)不足、粗悪な品質のコークス使用が原因とされる鉱滓凝結」は廃業の主因ではなく、背景に4つの外的要因▽鉱床調査が不十分▽木炭供給場所が狭小▽鉄需要の僅少▽人件費、輸送費の高騰(野呂景義らの「釜石鐵山調査報告」から)―があることを示した。
当時、国内の鉄需要は増加しつつあったが、鉄鋼製品の完成品輸入が多く、原材料としての鉄需要はわずか。政府は当初、鋼材やレールの製造工場を釜石につくり、国内のインフラ整備を進める計画だったが、製造技術が未成熟で社会的要請も十分ではなかったため実現不能に。釜石の鉄は大砲鋳造用程度の用途しかなく、多額の経常経費を要し、割高な製品しか造れない同製鉄所の継続は莫大な欠損を生むとし、廃業が決まる。高炉の再開判断時に工部省が行った鉱石の埋蔵量調査で、資源枯渇の見通しが示されたことも要因となった。
興味深いのは、廃業は故意ではないかということ。検討のきっかけとなった凝結の一因は生鉱石の投入によるもので、「経費削減のためとされた焼鉱の省略は、実は事業破壊のためだった」と記された文書がある。小野寺名誉館長は「事業見通しの責任問題を回避するため、意図的に起こした失敗(政治的事件)ではないか」と指摘する。廃業の「過失」を資源埋蔵量の事前調査の不備と計画性の甘さ、「故意」を事業休止への誘導(高炉の停止)―とし、技術的な原因とともに政治的理由が推測されることを明かした。
83年の廃業後、設備の払い下げを受けた商人・田中長兵衛は、釜石鉱山田中製鉄所を設立。日本の工業化の急激な進展に伴い、国内製鉄業の中心となった。釜石の技術は後に大きな発展を遂げる官営八幡製鉄所にも伝えられている。
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