釜石高女の集団疎開証言集、体験文寄せた元女学生ら「平和のメッセージに」〜箱石邦夫さん(元釜石南高教員)自費出版


2016/09/02
復興釜石新聞アーカイブ #文化・教育

体験文を寄せた元女学生ら。左から足立郁子さん、松村愛子さん、佐野睦子さん。後ろは証言集を自費出版した箱石邦夫さん

体験文を寄せた元女学生ら。左から足立郁子さん、松村愛子さん、佐野睦子さん。後ろは証言集を自費出版した箱石邦夫さん

 

 元釜石南(現釜石)高で英語教諭として勤務経験がある箱石邦夫さん(75)=盛岡市=は、71年前の終戦間際に艦砲射撃を受けた釜石市から仙人峠を歩いて越え遠野市に集団疎開した女学生たちの体験談をまとめた「八月のあの日 乙女たちの仙人越え」を自費出版した。釜石高の前身の一つで、当時は八雲町にあった旧制釜石高等女学校の女学生がつづった52通の体験文を収録。集団疎開の記録がほとんどない中、「歴史に埋もれてしまわないよう、あの時代に”あった”ことを証明したかった。次世代に送る平和へのメッセージにもなると思う」と箱石さん。24日、体験文を寄せた元女学生3人と釜石市役所を訪れ、野田武則市長に冊子2冊を贈った。

 

 1945(昭和20)年、釜石は7月14日と8月9日の2度にわたって米英連合軍から艦砲射撃を受け、多くの市民が犠牲になった。その年の4月、製鉄所があることで敵の攻撃を受ける可能性があると考えられ、小学生が遠野・宮守地区に集団疎開したとされる。

 

 箱石さんはこれらの調査の中で、見過ごされてきたもう一つの集団疎開があったことに気が付き、釜石南高在職時の1999年から2000年にかけて、生徒とともに女学生たちの証言を集める取り組みを進めた。文化祭で発表するためのもので、先輩たち約90人にアンケートと体験の執筆を依頼する手紙を送ったところ、52人が艦砲射撃や疎開の記憶、生きることの大切さなどをつづった手紙を返信した。

 

 女学生たちの体験文などによると、2度目の艦砲射撃を受けた8月9日をはさむ数日、女学校の1~3年生が学年ごとに険しい峠を越えたとみられる。

 

 箱石さんと市役所を訪れた元女学生の一人、松村愛子さん(86)=野田町=は当時、女学校3年生。遠野での疎開生活を振り返り、「戦争を知っている私達がこの世からいなくなった後に次の世代が戦争をおこさないためにも、この記録が残ることがささやかな願い」とつづっている。

 

 同級生の佐野睦子さん(85)=甲子町=は先に疎開していたため、缶詰工場に学徒動員された体験を書いた。工場があった嬉石から自宅のある大橋まで二十数キロもの道を何度も歩いたといい、「半世紀前の学生生活の数々の辛さ、苦しみは決して忘れる事はないでしょう」と結んだ。

 

 1年生だった足立郁子さん(83)=小佐野町=は2度目の艦砲射撃を受けた翌朝、疎開最後の班として遠野へ。がれきの山となった街、おびただしい遺体などを目にしながらの長い道のりを記した。「8月になると、『今年も生き延びた』とあの頃を思い出す」と言葉をかみしめた。

 

 元女学生3人は「来年どうなるか分からない。こうやって私らの体験を記録に残してもらってうれしい」と声をそろえる。野田市長は「疎開の証言は少なく、姿がはっきりしていない。大きな仕事をしていただき、感激。艦砲体験、戦争の悲惨さを後世に伝えていきたい」と感謝した。

 

 箱石さんは「戦中・戦後を語りつぐ会(いわて)」の会長で、定年退職後も「長年の宿題」と集団疎開の体験文を冊子にまとめようと心に決めていた。「時間はかかったが形にすることができ、責任を果たせた感が強い。同じ体験をした人たちが手に取ることで、別の記憶が思い出されることもあると思う」と期待する。

 

 贈られた冊子は市立図書館、市郷土資料館に置いて公開する。

 

(復興釜石新聞 2016年8月27日発行 第515号より)

 

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