啄木と釜石のつながり示す〜青葉通りに歌碑建立
誰もが足を運びやすいようにと青葉通りに建立された「石川啄木の歌碑」を除幕する式典出席者
岩手を代表する歌人石川啄木と釜石とのつながりを示す歌碑が、釜石市大町の青葉通り緑地に建立された。啄木の母方のいとこで医師として釜石の医療に尽力した工藤大助さん(故人)のひ孫、大町で歯科クリニックを開業する工藤英明さん(53)ら親族が中心となり建立。4日、現地で除幕式が行われ、関係者約60人が釜石初の啄木歌碑の完成を祝った。
歌碑建立の協力者にお礼を述べる工藤英明さん
啄木の足跡を後世に伝えよう会(工藤英明代表)が主催。英明さんの長女麻純さん(11)、長男純之助君(8)と野田武則市長ら来賓の手で歌碑が除幕された。野田市長は「中心市街地の観光資源ともなり、啄木と釜石の関係を知らせ、啄木の功績を一層発信してくれるものと思う」と祝辞を述べた。
歌碑は高さ1・5メートル、幅1・2メートル。啄木の古里、盛岡市玉山区で採掘される花こう岩「姫神小桜」に、短歌「ゆゑもなく海が見たくて海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に」が刻まれた。啄木が1910(明治43)年に詠んだ歌で、歌集「一握の砂」に収録されている。台座には三陸海岸の石や貝殻が埋め込まれた。製作は釜石市の仲野石材店(清水陵吉社長)が請け負った。
啄木は1900(明33)年、中学の同級生と盛岡から内陸を南下し三陸沿岸を北上する旅を行った。最終地の釜石には当時、いとこの大助さんが医師として赴任しており、啄木は大助さん宅に2週間ほど滞在した。啄木の釜石訪問は、共に旅をした同級生の船越金五郎が残した日記で詳細が明らかになった。歌碑には、その日記の記述も刻まれている。
大助さんは盛岡市出身。1896(明29)年、三陸大津波で医師が不在となった釜石に県の要請で着任。3年の予定だったが、4年目に赤痢が流行し対応のため釜石にとどまった。啄木が訪ねたのは、その4年目のこと。大助さんはいったん、盛岡に戻るが、2年後に釜石鉱山田中製鉄所の付属病院に赴任。以後、釜石で勤務医を続けながら俳句や謡曲などの文化面でも活躍し、その名を知られた。
英明さんは「啄木が釜石に来たのが明治三陸大津波の4年後。今年は東日本大震災から4年。この歌碑が啄木の目に代わって釜石の復興を見届けてもらうシンボルの一つになれば」と願いを込める。
大助さんの孫(英明さんの叔母)で一戸町在住の上田初子さん(73)は「啄木の足跡を風化させず残すことができ、祖父の思いをつなげられた」と多くの協力者に感謝。歌碑の歌について「時に牙をむき、時にたくさんの恵みを与えてくれる海。そのはざまで生きる人々のさまざまな思いと通じる感じがした」と選んだ理由を明かした。
完成した歌碑を前に盛岡市玉山区のコーラスグループ「コールすずらん」は啄木の歌の合唱曲を献歌した
除幕式には啄木の地元の吟詠会やコーラスグループ、愛好団体などが駆け付け、花を添えた。石川啄木記念館(盛岡市玉山区渋民)の森義真館長(62)は「啄木ゆかりの地に歌碑が建てられ喜んでいる。これを機に釜石の方々が啄木にさらに親しんでくれればありがたい」と期待した。
(復興釜石新聞 2015年10月7日発行 第425号より)
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