戦後79年― 続く苦しみ 事実知る大切さを後世に 釜石にあった2捕虜収容所 研究者が語る
第3回戦争講話と朗読の会=20日、市立図書館
太平洋戦争終結から79年―。終戦間近の1945年7月14日と8月9日、連合軍による2度の艦砲射撃を受けた釜石市では今年も、郷土の戦禍を知り、犠牲者を慰霊する場が設けられた。戦争体験者が年々減少し、記憶の継承が難しくなっていく中、戦争を知らない世代がその事実をしっかりと受け止め、後世につないでいくことは一層重要性を増す。その第一歩となるのが「知ること」。20日、市立図書館で行われた「戦争講話と朗読の会」、9日、市民ホールTETTOで開かれた市戦没者追悼・平和祈念式は、釜石であった事実を知る貴重な機会となった。
市立図書館の戦争講話と朗読の会は今年で3回目。講話を行ったのは国内外に会員を持つPOW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会の共同代表兼事務局長の笹本妙子さん(76、横浜市)だ。同会は2002年に発足。戦時下、日本国内に開設された捕虜収容所130カ所と民間人抑留所29カ所の調査記録をまとめた約1千ページに及ぶ事典を昨年12月に刊行している。笹本さんは67カ所の収容所について執筆した。
日本軍は開戦初期にアジア、太平洋の各地を占領。敵国の連合軍兵士約30万人を捕虜とし、アジア人以外の約16万人のうち約3万6千人を日本国内の労働力不足を補う要員として連行。移送船の劣悪な環境や米軍の魚雷攻撃、空爆で、日本到着までに約1万1千人が死亡したとされる。辛うじてたどり着いた捕虜は国内130カ所の収容所に入れられ、鉱山や工場、港などで働かされた。本県には北上と釜石に3カ所の収容所があり、うち2カ所が釜石。笹本さんは調査にあたった釜石の収容所について、写真や見取り図、元捕虜から聞き取った話などを交えて解説した。
釜石にあった2つの捕虜収容所について話す笹本妙子さん(右)
現甲子町天洞にあった大橋捕虜収容所(仙台俘虜収容所第4分所)は1942年に開設。ジャワから移送されたオランダ、英、米、オーストラリア人、横浜の収容所から来たカナダ人ら、終戦までに約400人が釜石鉱山で労働に従事した。捕虜には技術者が多く、削岩機による採掘、電気工事、機械修理などにもあたったという。航海で衰弱した人を含め、終戦までに病気で15人が亡くなった。
現港町、矢ノ浦橋のたもとにあった釜石捕虜収容所(仙台俘虜収容所第5分所)は43年に開設。ジャワからオランダ人、横浜から米、英、オーストラリア、ニュージーランド人ら約400人が連れてこられ、釜石製鉄所で資材の運搬、鉱石の積み込み、旋盤などに従事した。製鉄所が近かった同収容所は2回目の艦砲射撃で全焼。2回の砲撃で32人が犠牲になった。病死者も含めると死者は50人に上る。
笹本さんは両収容所の住環境や食事、日本人職員との関係など、これまであまり知られてこなかった事実も紹介。「食事は他の収容所に比べれば恵まれていたほう。一方で、戦時中の日本軍は暴力体質で、些細なことで上官が部下を殴るのは当たり前。それが捕虜にも向けられた」と話した。背景に「日本人にとって捕虜は軽蔑すべき存在で、捕虜になることは恥」という戦陣訓があったからとも。
市民ら約30人が笹本さんの話に耳を傾けた
戦後、収容所の日本人職員は戦犯裁判にかけられ有期刑を受けた。元捕虜と元職員、そしてその両家族は心に深い傷を負い、長年苦しみ続けてきた。釜石には1995~2000年に元捕虜のオランダ人、ウィレム・リンダイヤさんの息子が訪問。大橋収容所跡などを訪れ、父と交流のあった人に話を聞いたり、小中高生に講演をしたりする中でわだかまりが解けていったという。元捕虜からの聞き取りを続けてきた笹本さんも「話をするうちに日本への強い憎しみが少しずつ解けてくることも。自分たちの体験に耳を傾けてくれる人がいることで、感情が和らいでいくことも多い」と話す。
「捕虜収容所の設置期間は長くても3年半。短い所は1カ月にも満たないが、その中で何があり、どれほど苦しんだ人がいたのか…。郷土の歴史として知ってほしい」と笹本さん。自身が捕虜に関心を持ったのは、引っ越し先の横浜市の自宅近くで英連邦戦死者墓地を目にしたこと。若い世代が戦争を実感する難しさは感じつつも、「きっかけがあれば興味を持って調べたり勉強したりすることにつながる。そのためにも少しでも伝えていければ」と思いを込めた。
今回の講話、朗読会にはさわや書店が協力した
会場に足を運んだ市内の70代女性は「シベリア抑留のことはよく耳にするが、ここ釜石でも同じようなことがあったと思うと複雑。やはり知っておくべきこと」と脳裏に刻んだ。ウクライナやガザで続く戦禍にも心を痛め、「過去にあれだけの戦争を経験しているのに『なぜ今の時代に』と思う。国連の先導とかで何とか停戦にもちこむ形はできないものか」と一刻も早い終結を願った。
2部では市内で活動する読書サポーター「颯(かぜ)・2000」の3人が、戦後、詩人集団「花貌(かぼう)」が刊行した小冊子から短歌や戦争体験手記5編を朗読した。
「花貌」の釜石艦砲記録集から手記を読む「颯・2000」のメンバー(左)
市戦没者追悼式は9日に 釜石艦砲の紙芝居初上演 知らない世代 目と耳で理解
釜石市戦没者追悼・平和祈念式=9日、市民ホールTETTO
釜石市主催の戦没者追悼・平和祈念式は2回目の艦砲射撃を受けた9日に行われ、約150人が参列した。戦争で犠牲になった国内外の御霊に哀悼の祈りをささげ、恒久平和への誓いを新たにした。
黙とう後、小野共市長が式辞。「7月14日と8月9日は決して忘れることのできない日。2度にわたる艦砲射撃の犠牲者の中には、遠い異国の地で尊い命を落とした外国人もいる。恒久平和の確立へ努力することが、国内で唯一2度の艦砲射撃を受けた当市の使命」と話した。
釜石市遺族連合会の佐々木郁子会長(81)が追悼のことば。満州に出征し病死したとされる父ら過酷な戦場で果てていった兵士を思い、「79年たった今でも無念と悲しさに涙がこみあげてくる。一日も早く一柱でも多くの御英霊が古里の地に安らかに眠れる日が来ることを願うばかり。戦争で残るのは憎しみと報復だけ。日本を取り巻く国々にも不安な空気が流れ始めている。私たちは戦争と平和に襟を正して向き合わねば」と述べた。
追悼のことばを述べる釜石市遺族連合会の佐々木郁子会長
式では今年初めて、釜石艦砲を描いた紙芝居が朗読された。元教員で画家としても活躍した故鈴木洋一さん(2019年逝去)が自らの実体験を伝えるために制作した作品。鈴木さんは14歳の時に艦砲射撃を体験している。読書サポーター「颯(かぜ)・2000」のメンバーで、自身も4歳の時に艦砲射撃を体験した浅沼和子さん(83)が朗読した。
紙芝居「釜石の艦砲射撃」を朗読する浅沼和子さん(颯・2000メンバー)
紙芝居の絵を会場のスクリーンに映し出した。中央上白枠内は防空壕(ごう)の様子
参列者は献花台に白菊を手向け、戦争犠牲者の冥福、世界平和を願い、祈りをささげた。市によると2度の艦砲射撃による犠牲者はこれまでに782人が確認されている。
平和防災学習の相互交流で釜石を訪れている青森市の中学生らも式に出席。献花した
献花し、祭壇の前で祈りをささげる参列者
釜石新聞NewS
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