釜石は番号で呼ばれる橋が多い!? 鉄の町・鉄道の歴史ひもとく 図書館教養講座
釜石の「ナンバーブリッジ」を紹介した森一欽さん
三の橋、五の橋、七の橋、八の橋…釜石市には「番号で呼ばれる橋」が多い。なぜか?…「名称だから」といえばそれまでだが、気になっている人も少なくはないのでは―。そんな疑問の解消につながる講座が3日、小佐野町の市立図書館で開かれた。同館主催の市民教養講座の一環で、市世界遺産課の森一欽さん(課長補佐)が講師。「鉄の町かまいし」の歴史に関心のある市民ら約20人が聴講し、その「知りたい!」という好奇心をくすぐった。
歴史好きの人たちが耳を傾けた市立図書館の教養講座
テーマは「釜石鉄道の道」。橋の話は鉄の町、鉄路の歴史とかかわる。1858(安政4)年12月1日に大橋地区で、大島高任が洋式高炉・鉄鉱石による製鉄に成功したことから鉄の町の歴史がスタートするが、そこは鉄道の歴史が始まった地でもあるという。
時代は明治、鈴子(現在の釜石製鉄所がある地区)に官営製鉄所をつくることが決まったところから森さんの解説が始まった。生産能力を引き上げた高炉を稼働させる計画で、それに見合った鉄鉱石や木炭を運搬するため鉄路が敷かれた。それが「工部省鉱山寮釜石鉄道(総延長26.3キロ)」。大橋の採鉱場から鈴子、そして釜石港までつなぎ、支線として小川にあった製炭所も結ぶ路線で、1880(明治13)年に運転を開始。「これが日本で3番目の鉄道になる」と語る。
鉄の町の歴史を支えた鉄道について解説する森さん
ただ、官営としての使用は3年ほどで終わり、その後は鉄の生産量拡大や国による鉄道法の公布などで、▽馬車鉄道▽釜石鉱山専用汽車(社線)▽岩手軽便鉄道-と変遷していく。1950(昭和25)年に釜石線が全線開通した後には「モータリーゼーション」がやってくる。森さんは「車社会、国道のど真ん中を鉄道が走っているのは邪魔ですよね。撤去することに。昭和40年のこと」と説明した。
そして話題が変化。「ナンバーブリッジ。なんで番号が付いた橋ができたか」。気になっていた答えは「簡単に言うと、橋の名前をいちいち付けるのは面倒くさいということで番号を付けたんですね、たぶん。それが始まり」と、森さんはさらっと発した。橋ができたのは官営製鉄所時代で、工部省年報(公文書)などを示し、「当時作られた橋は20カ所」と説明。一方、同じ頃に刊行された工学雑誌の記述も見せ、「ある研究者のまとめでは17。何が違うか。書いた方はカルバート、つまり暗きょは橋と認めない」と差異の要因を指摘した。
橋の数に違いが生じた点も解説した
身を乗り出し説明に聞き入る参加者
工学雑誌を基に、17の橋を紹介した。今も使われ名称も定着している「五の橋」だったり、名を知らずの橋、宅地などで利用され地下で眠ってしまったものもあったり。当時の名残を見ることができる場所もあり、小佐野町の60代男性は「知らなかったことばかり。近くにあるという八の橋、九の橋を散歩がてら見てみようと思う。話を聞きくと楽しみが増えるな」と頬を緩めた。
質疑の時間には、鉄鉱石の運搬で活躍した蒸気機関車や製鉄所製造の鉄管の行方など、歴史好きな人たちならではの問いかけが続いた。「橋の位置を特定する参考に」と当時の住宅街の様子を伝える人もいて、知的好奇心を刺激し合う雰囲気に森さんはニヤリ。昨年の鉄の記念日・週間に行われたある講演で橋の話題が出た後、興味を持った市民らの様子を察知して今回のテーマを選んでいて、「うん。実際に歩いて、いろんな痕跡を探してみて」といたずらっぽい笑みを浮かべた。
数字が入った橋名板をパチリ。歴史に触れる町めぐりを楽しめる
甲子町にある「十三の橋」。イギリス積みという手法で積み上げられた赤レンガが残る
ナンバーブリッジ。釜石を楽しむ要素に橋めぐりはいかが―。
釜石新聞NewS
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