10月16日、48回の挫折が実った日
安政4年に大橋で始まり、橋野で花開いた近代製鉄は明治初期に13の高炉が操業するまでになった。明治に入り「富国強兵」「殖産興業」のスローガンの下、近代化を推し進める明治政府は、イギリス人鉱山師ゴッドフレーの献策により釜石での製鉄の官業化を決めた。
明治6年、明治政府は大橋、橋野、佐比内、栗林にあった鉄山を工部省の所管とし、鈴子に製鉄所をした。イギリスから技術者を呼び寄せ、機械を輸入し250万円(現在の価値で数千億円)もの大金を投じて明治13年に建設されたものの3年足らずで頓挫してしまいます。
25t高炉(写真=釜石教育委員会/転載禁止)
頓挫した製鉄所の鉄道施設は藤田組の藤田伝三郎に払下げられ、明治18年12月に大阪と境を結ぶ阪堺鉄道(のちの南海鉄道)を開業した。(前の記事参照)
鉱石とスクラップの払下げを受けた鉄屋の田中長兵衛と田中の娘婿で横須賀支店長の横山久太郎は払い下げのため釜石を訪れ、荒廃した官営製鉄所に驚く。日頃鉄材の輸入に疑問を持ち製鉄業の夢を抱いていた横山は復興を長兵衛に懇願しました。無謀とも言える申し出に長兵衛は当初反対しましたが久太郎の熱意に折れ、製鉄所の復興を決意した。
49回目にして出銑に成功した高炉(写真=釜石教育委員会/転載禁止)
横山は実験炉として橋野高炉と同じサイズの小型高炉を築造しました。操業主任に高橋亦助、機械設備主任に村井源兵衛を地元から採用し、操業を開始しましたが操業はうまくいかず鉱石と木炭の配合を変えるなど幾多の試みの甲斐もなく1年半が過ぎ、操業は46回を数え資金も底をついていました。久太郎は東京の長兵衛に呼び出され操業中止を言い渡されました。横山が不在の間、後を任された高橋は妻の実家の支援を得て2度操業を試みるが失敗に終わった。横山からの「設備の一切を片付ける準備をしておくように」との一報に高橋は職工らに終焉を告げる。しかし、職工は「食べるものさえあれば賃金はいりません」と願い出る。明治19年10月16日久太郎が不在の中、49回目にして最後の操業が始まろうとしていた。職工頭の進言により今まで悪鉱として捨てていた赤みがかった鉱石を使った。操業を開始し煙突から煙が立ち、鉄は途切れることなく流れ出し、長い苦難の道を経てついに成功するに至りました。
のちにこの明治19年10月16日は新日鉄住金釜石製鉄所の創業記念日となり山神社の祭日となりました。
参考文献
岩手東海新聞社 釜石物語 横山久太郎伝
菊池 弘著 風雪に舞う 釜石地方人物伝
半沢 周三著 日本製鉄事始 大島高任の生涯
半沢 周三著 大島高任, 日本産業の礎を築いた「近代製鉄の父」
かまいしnet ものづくりDNA 横山久太郎
タウンレポーター 金野義男
金野義男(こんのよしお)と申します。平田在住です。釜石の好きな風景は新浜町から見た南桟橋を中心とした風景と釜石湾を背景にした釜石大観音の後姿です。得意なジャンルは歴史と自然です。