震災7年 癒えぬ悲しみ、追悼式に600人参列〜ふるさと再興、犠牲者に誓う
初めて釜石市民ホールで行われた追悼式。震災発生時刻に合わせて黙とうする参列者=11日午後2時46分
東日本大震災から7年を迎えた11日、県内は犠牲者の死を悼む鎮魂の祈りに包まれた。震災関連死を含め1063人が犠牲になり、今なお152人が行方不明となっている釜石市では、市主催の犠牲者追悼式が大町の市民ホール「TETTO」で行われた。「さみしくてたまらない」「母との最後が心残り。なぜ逃げろと言わなかったのか」「必ず故郷を再興する」――。黙とうがささげられた午後2時46分、参列した遺族ら約600人は戻らぬ人たちに思いを寄せ、一日も早い復興を願って手を合わせた。
まちづくりの土台となる土地の整備が進む釜石市では、住宅や店舗の再建が加速化し、「まちの姿」が見え始めた。防潮堤や道路、鉄道などの整備と合わせ、復興のゴールも近づく。一方で、今なお約1千世帯が仮設住宅での暮らしを余儀なくされている。
政府主催の追悼式の中継に合わせて国歌を斉唱した後、午後2時46分を告げるサイレンに合わせて黙とう。野田武則市長は「復興の形が見えてきたが、将来の生活に不安を抱える人も多く、一人一人に寄り添い住まいの再建を進める。市民一丸となり、今年こそ復興を完遂すると霊前に誓う」と式辞を述べた。
母ふみ子さん(当時62)、妹の佐野梢さん(同29)、その娘で幼かった2人のめいを亡くした鵜住居町の会社員、沼﨑優(まさる)さん(44)が遺族代表で追悼のことば。亡くなった4人は鵜住居地区防災センターに逃げ込み、大勢の避難者と共に津波にのまれた。
「あの日は金曜日でしたね」。実家が兼業農家で、あの日、沼﨑さんは畑仕事をするため会社を半休しようと考えていたが、ふみ子さんに「一日仕事してこい」といわれたことに腹を立てて口論したまま、家を出た。「最後が口論で終わったこと、今でも悔やまれる」と振り返りつつ、「こんな形(会社を半休にして帰宅するなといさめたこと)だが、私の命を助けてくれた」と感謝する。
そして、毎週金曜日は市内に住む梢さんや弟を鵜住居町の自宅に呼び、同居するふみ子さんと夕食を共にするのが習慣になっていた。「7年前のあの日が金曜日でさえなければ」。梢さんらが津波に巻き込まれることはなかったかもしれない。地震発生直後、防災センターに避難した梢さんと連絡が取れた。「なぜ高台へ逃げろと言わなかったのか」。後悔が残る。
被災地に再建の動きが見られるようになり、沼﨑さんも昨年7月末に家を建て、鵜住居に戻ってきた。気を緩めると涙がこぼれ落ちそうになることも。「助けられた命。前に進み続けなければ」と奮い立たせる。「若者が戻ってきて活躍できるまちづくりを望み、この出来事も伝えていきたい。震災の教訓を忘れず、明るい未来のあるまちづくりが進んでほしい」と願った。
犠牲者を悼み、手を合わせる追悼式参列者
釜石市合唱協会の約20人が2曲を献唱。生田流正派箏成会が奏でる琴の音が響く中、参列者が次々と献花台に白菊を手向けた。
天神町の仮設住宅で暮らす三浦アイさん(67)は震災で長女の栄子さん(当時35)と長男の光(こう)さん(同33)を亡くした。「あっという間の7年。忘れたことはないが、この日を迎えるとより深く悲しみ、悔しさが募る。心配で様子を見にきた子どもの方が被災し、申し訳ない気持ちでいっぱい。2人がいたらどんなにいいか」と静かにつぶやく。一時、家にこもりがちになったが、周囲の人の声掛けで外に出るようになると、気持ちも楽になった。「友達っていいよね」と表情を緩めた。
(復興釜石新聞 2018年3月14日発行 第672号より)
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