縄文時代から近代まで 釜石の復興発掘調査、遺跡・出土品紹介 国史跡「屋形遺跡」魚のまち脈々と
復興発掘調査で明らかになった釜石の歴史を紹介する展示
釜石市が、東日本大震災の復興事業に伴って2012年度以降に実施した発掘調査は16遺跡、総面積は1万7616平方メートルに及ぶ。沿岸部の人々の営みに関する新たな知見が確認され、特に高い価値が認められた唐丹町大石の「屋形遺跡」は国史跡に指定された。こうした調査の成果を発信する展示や報告会があり、多くの市民らが参加。土器など生活道具のかけら、調査風景の資料写真などから地中に埋もれていた、まちの歴史に思いをはせた。
報告会では発掘した16遺跡の特徴を解説した
報告会は5日に釜石PITで開催。市文化振興課の手塚新太課長補佐が発掘調査の概要や文化財の復旧について解説した。文化財保護法では、埋蔵文化財や遺跡が見つかった土地で工事を行うには教育委員会への届け出が求められ、工事で遺跡が失われる場合は発掘調査を行って記録を残す必要がある。「市内には320近い遺跡があり、毎年少しずつ増えている」とした上で、縄文時代早期の遺跡で市内で一番古い土器が出土した下ノ沢遺跡(平田町)、平安時代の貝塚や縄文時代の集落跡などが見つかった泉沢屋敷遺跡(鵜住居町)など16遺跡の特徴をスライドで紹介した。
参加者は古代からつながる歴史や文化に熱視線を送った
同課文化財係の加藤幹樹主任が提供した話題は、屋形遺跡から見る「さかなのまちの起源」。漁港からの避難路整備で12年と15年に調査を実施。縄文時代中期末から後期初頭(4000~3800年前)を主体とする竪穴住居や貯蔵蔵の遺構とともに、三陸沿岸のなりわいの実態を示す貝塚が発見され、市は避難経路の計画を変更し、遺跡の保存を決めた。現在の秋田や山形に住む人々との交流を示す製品が出土し、集落と貝塚が一体となった希少な遺跡だったことから21年に国史跡となった。
貝塚からはシュウリ貝やマガキなどの二枚貝、ソイやアイナメなど魚類の骨のほか、釣り針やへらなどの骨角器などが見つかり、加藤さんは「釜石の名すらなかった頃から、魚のまちだったことを証明するもの。当時の自然環境やなりわいを知る非常に珍しい事例で、縄文から変わらない豊かな海と共存する生活が今なお続いている」と遺跡の価値を強調。体験学習や見学会など史跡の価値を知る学びの場として活用していく考えを示した。
屋形遺跡の貝塚の一部をはぎ取ったパネルも展示
展示は4、5日に市民ホールTETTOであり、土器、石器類(石鏃・石斧・耳飾りなど)、土偶、骨角器といった生活道具など約670点がずらり。発掘作業の様子を紹介する写真パネルも並んだ。顔のようなものが施された「人面装飾付深鉢」(縄文時代前期)は、見る方向によって異なる表情や動きが感じ取れるユニークな出土品。首飾りなどの装飾品には三陸では採れなかった「イモガイ」が使われたものもあり、古くから他地域との交流があったことをうかがい知ることができる。
平安時代の炭窯跡が見られる「横瀬遺跡」(箱崎町)、奥州藤原氏の影響を示す出土品で注目される「川原遺跡」(鵜住居町)、日本で3番目の鉄道跡として貴重な文化財「釜石鉱山鉄道一ノ橋橋台跡」など特徴的な資料に来場者は興味津々。平田の鈴木晴貴さん(釜石高2年)は母校の平田小裏手にある「平田遺跡」が気になった。「何気なく暮らしている地域に、昔の人の歴史が眠っていることを初めて知った。神秘的。ロマンがある」と熱心に見入っていた。
歴史キャラ登場か⁉顔のようなものが施された「人面装飾付深鉢」
来場者はずらりと並んだ出土品をじっくりと見て回った
報告会は約90人が聴講。大槌町の阿部智子さん(47)は三陸ジオパーク推進協議会で活動していて、「屋形遺跡がジオパークの見どころの一つになるのでは。地域の歴史や文化につながる大地の話として興味深い」と感じた。災害という負の部分もあるが、復興事業で各地の発掘調査が進んだのも事実で、「震災を伝えるのも三陸ジオパークの役割。地域の歴史を物語る貴重な場所が発見されたことをプラスに捉えて紹介してほしい」と期待した。
展示会場では発掘作業に携わった調査員らが出土品を手に解説した
今回、展示紹介されたのは、ほんの一部の出土品。手塚さんによると、「破片などを含めると10倍はある。見てもらいたいものはまだある」と熱く語る。今後は、理解や興味を深めてもらえるよう年代別に展示するなど工夫し、発信を続けていく考えだ。
釜石新聞NewS
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