桜庭吉彦さんインタビュー

釜石ラグビー 桜庭吉彦

 

桜庭吉彦さん プロフィール

1966年生まれ。秋田県立秋田工業高校卒業後、新日本製鐵釜石ラグビー部に入部。ポジションはロック。2006年現役引退。日本代表キャップ数 43。ラグビーワールドカップ3大会出場(1987・1995・1999)。ラグビーワールドカップ2019大会アンバサダー。

 

ラグビーとの出会い

ラグビーを始めたのは、高校2年生の時です。それまでは野球をしていました。ポジションはピッチャーやファーストでした。秋田工業高校でも、甲子園を目指す気持ちで野球部に入りました。ですが、今思えば私にはボールが小さすぎたのでしょう、なかなか上手くいかない。そんな時に、ラグビー部の顧問の先生から「君は体も大きいからラグビーが向いているんじゃないか」と声を掛けていただきました。これが、ラグビーを始めたきっかけです。

 

ラグビー部に入部した年に、高校ラグビー選手が目指す聖地“花園”で行われる「高校ラグビー選手権全国大会」に出場しました。ラグビーを始めてすぐに大舞台に立つという、恵まれた環境を与えて頂きました。

 

その年はベスト8に終わりましたが、全国の舞台に立ち、悔しさを味わった事で、「さらに上を目指したい」」という気持ちが芽生えました。同時に、高校2年生から始めた私がレギュラーになった事で試合に出られなくなった先輩の姿を間近に見て、「そういった人たちの為にも、自分が与えられた場所で精いっぱい頑張るんだ」という気持ちを強くしました。そして翌年、全国優勝を果たすことが出来ました。

 

新日鐵釜石ラグビー部から声を掛けて頂いたのは3年生の時です。ラグビーを始める前の幼い頃から、お正月と成人の日にテレビで試合は観ていました。「同じ東北にこんなに強いチームがあるんだ」と記憶に刻まれ、自分自身がラグビーを始めてからは憧れのチームとなっていました。

 

そのチームから、母校の先輩である佐野正文さんが私を訪ねてくれました。なんと、私の足のサイズを調べて下さって、29.5㎝のスパイクをお土産に持って。憧れのチームの選手が…、と感激しました。本当に嬉しかったです。

 

その後、当時監督だった松尾雄治さんも訪ねて下さって、「釜石に来ないか。一緒にラグビーをやろう」と言って頂きました。あの“松尾雄治”さんですよ!。高校生の私にとっては雲の上の存在です。入部したら、残念ながら松尾さんは居なかったんですが。

 

実は、釜石が“V7”を達成した時、国立競技場で私も試合をしているんです。優勝決定戦の前座試合で。その時、試合前にスタンドの釜石応援団の方々が、「頑張れ!!」と声を掛けてくれたことを非常に良く覚えています。その声援のおかげでそれまでにないくらいの力を発揮することが出来ました。色々なご縁があって、釜石に来ることが出来ました。そのおかげで今の私があります。

 

社会人の練習は高校時代より時間は短いですが、その分、集中力と強度が格段に違いました。最初はついていけなかったですね。高校までは基本的に“パワーと高さを活かしたプレー”でやっていましたが、入部してからは、技術の面はもちろんですが、ラグビーに取り組む姿勢や価値観を先輩から教わりました。日本代表に選出されている素晴らしい先輩が目の前にいて、目標にすることが出来た環境は本当に幸せでした。

 

当時の練習で良く思い出すのは、「タッチフット」と「冬のRUN練習」です。「タッチフット」は社会人になって初めて体験するものでした。色々要素が含まれていて、頭も体もフル活用しなければいけない。オフェンスとディフェンスの切り替え、パス連携など最初は慣れずに苦労しました。また、冬の時期はとにかく“走る”練習がすごかった。ただひたすら走るんです。ボールを持たない日もありました。

 

ラグビーの楽しさ

釜石ラグビーインタビュー 桜庭吉彦さん

 

始めた当初は「やらなくてはいけない」という気持ちだけでした。
高校で教わったFWのプレーの基本は“愚直に押す”“突っ込む”というシンプルなもので、よく言われたのは「FWはお姫様を運ぶ馬車でいいんだ」という言葉でした。表舞台は似合わない。もちろん、そこにもラグビーの魅力はありますが、“ボールを持って走るプレー“のような楽しさは少ないかもしれません。

 

新日鐵釜石ラグビー部に入部した後も、高校で教わった価値観の延長で、しっかりとチームの土台としてプレーすることを心掛けていました、それが美学であると。

 

そこから選手として経験を重ねるにつれて、楽しさや達成感を得る為に「自分に何が必要で、どんな準備をすればいいのか」を考え、実践出来るようになって行きました。

 

もちろん、勝負の世界ですから勝つに越したことはありません。しかし、勝ち負けに関係なく、試合で「出し切った!」と思う事が達成感につながります。胸にモヤモヤしたものが残ると、やはり楽しくないですから。

 

チームの低迷 そしてクラブ化へ

釜石ラグビーインタビュー 桜庭吉彦さん

 

7連覇後、チームは様々な条件が重なり、再び社会人リーグ優勝や日本一になる事はできませんでした。 

 

私も、一度でいいから満員の国立競技場で試合をしたいと思ってはいましたが、その夢は叶いませんでした。また、選手として年齢を重ねる事に立場も変化していきました。キャプテンも務めるようになり、自分の事だけではなく、チーム全体の事も考える様になりました。

 

キャプテンの役割は「チームをまとめ、一つにする」という事が一番に求められる事だと思いますが、やはり自分がコントロール出来るのは自分だけですから、まずは自分が何をするべきなのかをしっかりと考え、率先して行動するようにしました。

 

そして、新日鐵釜石ラグビー部は2000年にクラブ化へと移行する事が決定します。
やはり、多くの部員が後ろ向き、ネガティブな気持ちになりました。私も初めはそうでした。しかし、悩んでいてもこの事実は変わらない。それなら前に進む為に、ポジティブに考えようと発想を転換しました。

 

クラブ化以前から、他の企業チームよりも地域との繋がりが強いチームだったとは思いますが、クラブ化によって更に距離が近くなりました。クラブ化にならなければ得られなかった財産だと思っています。

 

また、引き続き今までと同じステージで戦えるようにと、市民の皆さんが署名活動をして下さいました。今のシーウェイブスRFCがあるのも、この時の皆さんの後押しがあってのことです。本当に感謝しています。

 

様々なスポンサー企業の皆さまの職場で選手を受け入れて頂き、サポーターやファンの皆さまにも良い時も悪い時も共に歩んで頂きました。

 

2011年3月11日 東日本大震災津波 その時…

チームやスタッフにも被災した者もいました。職場が被災した者、家族や知り合いを亡くした者も。
そんな中、選手たちが率先し、いち早くボランティア活動を始めてくれました。「ラグビーをしている場合ではない。今は復旧に向けて自分たちに出来る事を優先しよう」という気持ちでした。

 

特に、当時在籍していた外国人選手たちが、帰国せずに残って行動を共にしてくれた事がチームにとって大きかったです。あの姿に他の選手も励まされました。自分たちで出来る事をしよう、まずはそこから始めよう。そうした想いで、チームが一つになっていきました。

 

また、街で市民の皆さんと一緒に行動する事によって、地元の方々と近くなることが出来た瞬間でもありました。
それから、釜石の外にいる大勢の皆さんが、チームを、そして釜石を心配し支援してくださいました。普段は見えにくい事も多い中で、「釜石ラグビー」の存在の大きさに改めて気が付くことが出来ました。

 

震災前までは、ラグビーが当たり前の様に近くにありました。しかし、震災が起こり、ラグビーがやりたくても出来ない、ラグビーをやっていていいのか?という葛藤の中で、ラグビーが出来る事への感謝の気持ちを、あらためて深く胸に刻むシーズンとなりました。

 

それから今日まで、チームを取り巻く環境も変化してきました。
2017年からは新しくスタートしたリーグに参戦しています。初年度は8チーム中7位と厳しい船出となりました。ですが、選手は毎日厳しい練習をこなし、ハードワークしています。これが実を結び、地元釜石や岩手県、そして東北の皆さんに良いニュースを届けたい。ラグビーに少しでも興味をもって頂けるように、チームとして貢献していきたいです。

 

ラグビーワールドカップ釜石開催へ

釜石ラグビーインタビュー 桜庭吉彦さん

 

“ラグビーのまち”にラグビーワールドカップがやってきます。私自身は、選手時代に3度出場することができました。初出場は1987年、20歳の時でした。新日鐵釜石ラグビー部の先輩方と一緒でしたので、右も左のわからない若造は先輩方の後をくっついて歩いていました。ワールドカップは、世界基準のラグビーの場に立てる本当に素晴らしい舞台です。選手としてかけがえのない経験をさせていただきました。

 

また、世界一を決める大会が持つ独特の雰囲気があります。大会の魅力、素晴らしさ、凄さなどを皆さんにどんどん発信していくのも、実際に経験した私の役目だと思っています。

 

そんな大会が釜石で行われます。今大会の12会場の中で釜石が最も小さなまちですが、だからこそ人の想いをダイレクトに届けやすいと思います。

 

釜石の良さ、釜石らしさを活かし、世界中から訪れるラグビーファンをおもてなしすることが出来るでしょう。外国語が完璧に出来なくても、気持ちがあれば伝わるはずです。人の温かさ、とびきりの笑顔。そんなお土産を持って帰って頂けると思います。

 

また、大会アンバサダーとして各地でお話しをさせて頂いている中で、「ワールドカップ開催後にいかに大会のレガシーを繋げていくか」という具体的な提案をして下さる方などもいて、大変ありがたく思います。

 

東日本大震災という悲しみと戦う中で、世界中の皆さんから支援と応援を頂いた釜石ですが、今度は明るい話題を世界中に届けるチャンスを頂きました。

 

あの時の支援への感謝の気持ちも込め、大会成功に向けて、個人としてもチームとしても貢献して行きたいと思っています。