石山次郎さんインタビュー
石山次郎さん プロフィール
1957年生まれ。秋田県立能代工業高校卒業後、新日本製鐵釜石製鉄所入社、同ラグビー部入部。ポジションはプロップ。1979年~1985年のラグビー日本選手権7連覇時代の不動のレギュラーメンバーの一人。日本代表キャップ数19。1988年現役引退。東日本大震災後にV7戦士やラグビー仲間と共に立ち上げた、NPOスクラム釜石の代表を務める。現在(2018年3月)は、建設会社に勤務し、釜石鵜住居復興スタジアム(仮称)の整備工事現場に携わっている。
ラグビー無名高校から新日鐵釜石ラグビー部へ
1975年、新日鐵釜石ラグビー部の中西監督が私の通っている秋田県立能代工業高校にスカウトにやってきました。お目当ては、当時から強豪校として全国に名をはせていたバスケットボール部。「背が高くて足が速い」そんな選手を新日鐵釜石ラグビー部へ“リクルート”する為にいらっしゃったのです。
ところが、いざバスケットボール部を訪ねてみると、選手がバスケ日本代表を目指して必死に練習する姿を目の当たりにし、「ラグビーに転向しないか」とは言い出せなかったそうです。
そこで、ラグビー部の監督が(当時の能代工業高校ラグビー部は県大会で一度も勝ったことが無い弱小チームでした)、「走れる動きの良い選手がいる」と推薦してくれたのです。
新日鐵釜石ラグビー部側としては、「仕方なく採用した」という所だったと思います。言わば拾われたようなもので、たいして期待もされていない選手、それが私でした。とは言え、当時の新日鐵釜石ラグビー部もまだそれ程強いチームではありませんでした。社会人大会のベスト8、もしくはベスト4に入るくらいの成績でした。なので、そこへ入部して“活躍するぞ”という気持ちより、「就職出来るって事だから良かったなぁ」という気持ちの方が大きかったです。
ただ、ラグビーをやるからには、“一度でいいから選手として輝きたい”という思いも持っていました。例えば、何かの選抜チーム、あわよくば日本代表に選ばれるとか。でもそれは、まだ漠然とした思いでした。
入部すると、まだ結果は出ていなかったとはいえ、チームには日本代表選手が何人もいました。そんな先輩たちと一緒に練習するようになってから、「この人たちに追いつけば、日本代表合宿に呼ばれるはず、そうしたら自分も代表になれる…」。そう思うようになり、だんだんと欲が出てきました。
練習はとにかく厳しく、一年目はほとんど練習についていけませんでした。スピード・パワー・身体の大きさ、何もかもが全然違い、一日の練習を終えるのがただ精いっぱいでした。
特に思い出すのが、入部して3年目までの練習です。薄暗い照明の下、最後に「200m30秒以内走」を繰り返し行いました。終わる頃には「ケツが割れ」ほとんどの者が歩くことも出来なくなり、這いつくばってゴールラインに辿り着く。そんな光景を思い出します。
そんな練習を繰り返していると、2年を過ぎたあたりから、いつの間にか身体も適応してきてだんだん大きくなっていました。そして、「あれ?先輩、弱くなったかな…」と感じる事が増えて来ました。でも、それは先輩が弱くなったのではなく、自分がレベルアップしていた証拠でした。
ですが、そもそも私自身は誰にも負けない何かを持っているわけではなく、不器用で、しかもプロップなのにスクラムが大嫌いでした。極端なマイナス思考で、試合前には「スクラム負けたらどうしよう」とか「FWが押されたらBKが下がってしまう」とかばかり考えていました。そうした不安を払拭する為に、しっかり練習に取り組みました。
そして試合になると、「目の前のプレーに全力を注ぐ」だけ。それをひたすら繰り返す。するとスタミナが続かない。「ならば無尽蔵なスタミナを保てばいい」。そんな行き当たりばったりで無謀な考え方でしたが、それが結果として、「いつでもどこでも仕事をしている」プレーヤーとして周りに評価して頂くことになったのではないかと思っています。
「北の鉄人」~日本選手権優勝 連覇
新日鐵釜石ラグビー部は、私が入部した1976年に初めて社会人で1位になり、日本選手権でも優勝して日本一になりました。そして、私は入部3年目の1978年からレギュラーになり、そこから7連覇・・・となったわけですが、本当に運が良かったと思います。先輩方が苦労して築き上げてきた土台の上で、一番良い時に選手としてプレーさせて頂きました。
日本選手権の決勝の舞台、満員の国立競技場の光景は、もちろん今でも忘れる事は出来ません。そこで最初に目にした大漁旗が「優勝丸」でした。そんな名前の船が本当に釜石にあることに驚いた覚えがあります。
秋田の田舎育ちで、高校卒業後に釜石に来た私は、正直なところ、都会や大学卒に対するコンプレックスを持っていました。あの大漁旗をなびかせて応援してくれた釜石の人たちが、「都会のスマートな連中には負けたくない!」という反骨心を更に掻き立ててくれました。
忘れられない光景と言えばもう一つ。市内の目抜き通りで行われた“優勝パレード”です。毎年、全国大会に向けて出発する時には不安だらけでした。ですが、「今年も勝って帰ることが出来た。大会や遠征で留守にすることが多くても、いつも温かく接してくれる職場の人たちに顔向けが出来る。」という安堵感と、「釜石の人たちが祝福で迎えてくれる」という高揚感が入り混じり、釜石駅で列車を降りるときの胸の高まりは忘れられません。
パレードが行われる通り沿いの人たちは仕事の手を止めて笑顔一杯に祝福してくれ、建物の窓から手を振って、紙吹雪まで降ってくる歓迎ぶりは、ちょっと照れ臭いながらも最高に嬉しかったです。また、あのような光景を見たいと思います。
恩返し~ラグビーワールドカップ誘致活動へ
振り返ると、今の自分があるのは釜石に来てラグビーをやったおかげです。
何をどうするか具体的に考えていたわけではありませんが、引退してからずっと「何か恩返ししなければならない」思っていました。お世話になった人に恩返しが出来れば一番いいのですが、年月が経ち、もう直接返せなくなっていることも多くなっていました。
それならば、直接返せなくても今釜石で暮らす人たちに返せばいいじゃないか・・・とぼんやりと考え始めていた時に、東日本大震災津波が発生しました。今こそ行動しなければ!と思いました。
2011年3月11日、私は静岡にいました。静岡でもかなりの地震の揺れを感じました。釜石で暮らした経験から、「大きな地震が来たら津波が来るかもしれない!」とすぐに頭に浮かびました。高台にある病院に行き、待合室のテレビで東北沿岸を襲う津波の映像を観ました。
これが現実だとはにわかに信じがたい想像を絶する光景を見て、今はまだ、外部からあれこれ余計なことはしない方がいいと思いました。それどころか、きっと迷惑になるだろうからと。何か出来る事をしようと、とにかく情報収集にあたりました。この時、ラグビー仲間のつながりがとても大きかったです。
震災から2週間後、東北自動車道が開通したと聞き釜石に入りました。当時の私の車が、電気とガソリンのハイブリット車だったので、静岡から釜石まで給油なしで往復できました。ガソリンもなかなか手に入り難い時期でしたから、この車が役立ちました。
生活物資や水を使わないシャンプーなど、買えるだけ買って届けようとしたのですが、静岡でも生活物資の不足が起きていて思うように集められませんでした。また、まだ寒いのに灯油が不足しているという事を聞いてたので、車に積めるだけの灯油を載せて走りました。そして釜石に入り、片岸地区の高台の避難所や、知人が身を寄せていた市内中心部の避難所を周りました。
2011年5月頃、当時、釜石シーウェイブスRFCのゼネラルマネージャーだった高橋善幸氏と会い、釜石やシーウエイブスの状況などを聞きながら、「どんな支援が出来るだろう」と考えていました。そして、「ラグビーワールドカップが8年後に日本で開催される。釜石でも試合が出来ないだろうか?」という話をしました。開催することが出来たら、震災からの復興への希望になるのではないかと。
しかし、当時はまだそれどころではなく、そういう話を釜石にいる人が言える状況ではありませんでした。でも、外にいる我々だったら言える。まずは、釜石の外にいる人間から動いてみようと。最初は仲間内でも、「そんなこと出来るわけがない」「無理だ」という意見の方が多かったように記憶しています。
それから2週間ほど経った頃、日本大会の開催地規定条件の説明会がある事を知りました。条件には、宿泊施設、スタジアムの規模、交通アクセスなどがポイント制で挙げられていましたが、その中に「その場所で行う社会的意義があること」という項目があったのです。「これだ!」と思いました。これなら釜石にも権利があるかもしれない。やってみようと。
震災から4か月後、企画書と航空写真地図を持って、野田釜石市長を訪ねました。「釜石にラグビーワールドカップを誘致したい。その為に外にいる我々が動いてもいいですか?」と。市長は初めは困惑されていましたが、「皆さんが動いて下さる事は大変ありがたい事です」と言って頂きました。そこから、震災後にラグビー仲間と共に立ち上げたNPO 団体のメンバーが中心となり、誘致活動を始めました。
釜石の外にいる人間から始めた活動でしたが、活動が広まるにつれて釜石市民の中にも賛同してくれる人が出て来て、次第に仲間が増えて行きました。そして、正式に岩手県釜石市として立候補することになり、開催地が決定する瞬間がやってきました。
その時私は新潟県にいて、ネット中継がうまく繫がらず視聴は諦めていたのですが、先輩の森重隆さんから「釜石決まったな!」と電話を頂き、決定を喜び合いました。後に聞いた所によると、ワールドラグビーによる視察の際の釜石市のプレゼンテーションが、本当に素晴らしかったそうです。市民の皆さん、誘致担当部署の創意工夫、熱意が開催を引き寄せたのだと思います。
現在(2018年3月)、私は釜石市鵜住居地区に建設中の「釜石鵜住居復興スタジアム(仮称)」工事現場で働いています。「ラグビーワールドカップを釜石に誘致しよう」と言い出した張本人ですから、その後知らないふりは出来ません。個人として出来る事は限られていますが、何か手伝いたいと考え、自分に一番合っている場所で働きたいと、ラグビー仲間のツテを頼りお願いしてここに居ます。
スタジアムは2018年の夏ごろに完成予定ですが、私は完成の少し前にここでの仕事が終了しますので、ワールドカップが釜石で開催されるときは、「楽しく賑わっていればいいなぁ」と思いながら、釜石から離れた場所にいるはずです。何しろ私は雨男なので、私がいると必ず雨が降ります。晴れたきれいな青空の下で大会が開かれて欲しいのです。
私の出来る事はここまでで、ここからは釜石の皆さんの想いと、最高のおもてなしで大会を成功に導いてくれると信じています。そして、スタジアムの存在が、「震災の辛いことや悲しいことを払拭してゆくシンボルになってほしい」と願っています。