ラグビーマガジン2015年5月号 COLUMN Dai Heart MATCH 125【親不孝通りの幸福。】(藤島大/文)

 

 釜石、ワールドカップの開催地へ。速報に接して、ただちに頭、いや胸の奥に浮かんだ景色がある。

 

 1981年10月7日、現実にあった「おとぎ話」だ。

 

 岩手県釜石市の上中島多目的グラウンド。かつて、そこはただの野原であった。近くに製鉄所の社宅が並び、社員の子供たちは「第6広場」と呼んで草野球や鬼ごっこに興じた。本格の観客席などありはしない。芝ではなく草のフィールドはかすかに傾いていた。前半が上、後半は下、「下」のスクラムはこたえた。

 

 そんな場所に「15000」もの観衆が詰めかけた。1500人ではない。1万5000人である。当時の釜石市の人口は6万強のはずだ。

 

 前年度に日本選手権V3を達成、黄金期の新日鐵釜石ラグビー部は、当日、ニュージーランドの強豪クラブ、ポンソンビーをこの素朴なグラウンドに迎えた。すると、おかしなくらい老若男女が集まった。

 

 先の3月14日、東京・丸の内でスクラム釜石などが主催の「東北&クライストチャーチ復興祈念チャリティ-イベント」が行われた。

 

 釜石と日本代表の往時の1番で「釜石でW杯」の発案者のひとりでもある石山次郎さん、あんなに無口な人が基調講演のマイクを握った。

 

 「私がこんなに喋るようになるのですからラグビーには力がある」

 

 笑わずに話して会場を笑わせた。
 石山さんは、あのポンソンビー戦に出場している。イベント終了後に聞いた。資料に「15000人」とあります。覚えておられますか。

 

 「おおげさかな。大きな観客席はないんですから。ただタッチラインぎわまで人がぎっしり、我々が気を使うくらいでした。息遣い、ぶつかる音、聞こえたと思いますよ」

 

 観客数の「根拠」は釜石製鉄所の総務部・労働課が翌年3月に編んだ記念誌『ラグビー日本一』だ。そこに「地元警察の警備担当者」のコメントとして「一万五千人から一万七千人というところでしょうか」。社宅の屋上などから観戦した者だけでも「二千人を超えるだろう」。ただし試合経過の記事には「六千人の観衆が、かたずをのんで」ともある。

 

上中島グラウンド"

1981年10月7日、ポンソンビー 19-13 新日鐵釜石。市民の詰めかけた上中島グラウンドには、現在、仮設住宅が並んでいる。

 

 石山さんは言う。
 「秋田の田舎から両親を招いたのですが入れなくなってしまって。かといって他人を押し分けるような親でもなく途方にくれていたら、たまたま職場の先輩が招き入れてくれました。いずれにしても外国のチームがきて釜石で戦うわけですから。私もウキウキした。ブライアン・ウィリアムズもいましたからね」

 

 最後の人名、オールブラックスの伝説のランナーである。卓球のサーブの速度でステップを踏みタックルを背中に置いた。38テストマッチで10トライ。サモアの血を引く弁護士さんだ。この午後はFBを務めた。

 

 石山次郎とスクラムを組みあった右PRはピーター・ファティアロファである。「最も強烈な相手でしたね。持って生まれた先天的な強さ。うらやましかった」。ファティアロファは10年後の第2回W杯の西サモアのキャプテンとして大会に衝撃をもたらした。現地テレビのインタビューに「職業はピアノ運び。よってウエイトトレーニングの必要はありません」と語った。来日時のプログラムの職業は「運転手」。こちら日本の誇る左PRは製鉄所整備部門で働いていた。

 

 ポンソンビーの監督は、モーリス・トラップ、‘87年から’91年度にオークランド代表を率いて、なんと90戦86勝3敗1分けの戦績を刻んだ。ビジネスの成功者としても名高い。13番はジョー・スタンリー。5年後にオールブラックス入りを遂げ、6年後の第1回W杯優勝メンバーとなる。

 

 和田透、洞口孝治、千田美智仁、松尾雄治、森重隆、谷藤尚之、キッカーは金野年明・・・。釜石は堂々と渡り合った。6-0、6-3、6-9,13-9、13-15、13-19。シーソーの惜敗である。

 

 アマチュア時代、試合終了の笛は開始を意味した。遠征先での交流はラグビーそのものだった。「1次会はホテル。そこから親不孝通りあたりの小さな店に分散しながら流れて」。石山隊は『シルクロード』なる一軒だったか。肩ぶつけ合った者と者の笑顔が三陸の夜にはじけた。

 

「いま思えば最高に幸せな時間でした。釜石でラグビーができて、釜石にNZのチームがきてくれて、それを釜石の人たちがあんなにもたくさん見にきてくれて」

 

 お堅い警察が、お堅い総務部編集の誌面に「万」の数字を挙げた。チケットはないから、どのみち正確な数字はわからない。だから、ただ、こう書き残そう。

 

 昔、昔、釜石にオールブラックスの大スターが降り立ち、ものすごくたくさんの市民が草の上に座って、酒場の冷蔵庫がカラになった。

 

※このコラムは、2015年3月25日発行 ラグビーマガジン 5月号に掲載されたものです。今回、筆者である藤島大様と株式会社ベースボールマガジン社のご厚意により、全文転載をお許し頂きました。この場をお借りして、ご協力に感謝申し上げます。