「みんなを戦争に行かせない」70年前の惨状、語り継ぐ

2015/07/21|カテゴリー:復興釜石新聞 文化・教育

みんなを戦争に行かせない

講演の後、日頃市中の生徒に囲まれる和田乙子さん(中央)と村上校長(右)

 

 「みんなを戦争に行かせない」。釜石市甲子町中小川の老人ホームで暮らす和田乙子さん(85)は14日、米英軍による艦砲射撃を受けた70年前のあの日を思い出し、大船渡市日頃市町の日頃市中(村上洋子校長、生徒37人)の全校生徒に、こう叫んだ。村上校長との縁で招かれた「平和・命を考える講話会」。記録的な猛暑の中、被災時に生徒と同じ年頃だった和田さんは、無慈悲な惨状、苦しかった飢えなどの戦争体験を伝えた。

 

 1945年7月14日、大槌高等女学校1年、16歳の和田さんは同級生とともに「勤労動員」に駆り出され、釜石製鉄所でレンガを運ぶ作業をしていた。空襲警報のサイレンで嬉石町の社用トンネルに避難した。3時間にわたる砲撃、空襲で外には遺体が散乱、市街は跡形もなかった。女生徒らは泣きながら、大槌方面の自宅を目指して線路を歩いた。

 

 市の調査によると、本土で初めて受けた艦砲射撃で423人が死亡。8月9日の2度目の艦砲攻撃を合わせ756人が犠牲になった。民間の調査では、犠牲者は1千人にも及ぶとされる。

 

 和田さんは「青春は戦争だった。みんなの顔を見ると、泣きたくなる。震災は自然のことだが、戦争は人がする。止められることだ。戦争で死ぬな」と訴えた。津波で鵜住居町の自宅を流されたが、戦争の語り部としての務めをしっかりと果たした。

 

 3年の佐藤秀君は「ひいばあちゃん(93)は(大船渡市)立根(町)で生まれ、結婚して5人の子どもを育てた。戦争で(兵隊の)兄弟を亡くした。『なんで、兄弟が亡くなったのに元気なの?』と聞いたら、おばあちゃんは『兄弟があの世から、いつも見守ってくれているから』と答えた。『戦争はやっちゃいけない』と言っていた。本気で言えば、戦争にならない。きょうの話を、がんばって伝えたい」と話した。

 

 村上校長は震災当時、津波で壊滅した釜石東中の副校長。学校にいた全校生徒、職員と避難した。在職中に和田さんを語り部として招くなど交流があった。五葉山の南山麓にある日頃市地区は津波には縁遠い。村上校長は「しかし、被災した大船渡市の学校。生徒に命の大切さを伝えたかった。和田さんは生きている限り平和を叫び続けたい―と希望しており、戦後70年にお招きした」と語った。

 

(復興釜石新聞 2015年7月18日発行 第403号より)

 

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