60年の歴史に幕、呑ん兵衛横丁「泣きたくなるよね」〜仮設店舗 はまゆり飲食店街、退去期限迎えるも移転先見つからず


2018/04/10
復興釜石新聞アーカイブ #地域 #産業・経済

さまざまな思いを胸に最後ののれんを掲げる菊池悠子さん

さまざまな思いを胸に最後ののれんを掲げる菊池悠子さん

 

 東日本大震災の被災飲食店が入居した釜石市鈴子町の仮設店舗「釜石はまゆり飲食店街」(18店)は、年度末の退去期限を迎え、3月31日で営業を終了した。同所で再起をかけ、本設営業に望みをつないできた「呑ん兵衛横丁」(6店)は移転先を見い出せず、看板を下ろすことに…。釜石製鉄所全盛時代に飲食業発展の礎を築き、60年の歴史を紡いできた名物横丁の閉店に、客からは「寂しい」「何とか続けられないものか」と惜しむ声が上がった。

 

 同横丁で55年にわたり居酒屋「お恵」を営んできた菊池悠子さん(79)。最後の営業を前に、長年支えてくれた客や震災後、多くの支援を寄せてくれた全国の人たちに「とにかく感謝、感謝だよね」と言い尽くせぬ思いを吐露。「メソメソしててもだめ。いつもの自分でいないと」と奮い立った。

 

 横丁の店主らは「本設移転するならみんな一緒に」と願い、同飲食店街の他店主らと集団再建の道を模索。昨年7月には市に対し、駅前商業ビル建設構想を提案し市有地の提供を要望したがかなわず、仮設営業の期限延長も認められなかった。

 

 “釜石の顔”と言われた横丁を閉じることに、「泣きたくなるよね」と菊池さん。やりきれない思いをにじませながら「やめるんじゃなく、休むことにする。多分、みんな気持ちは同じだろうから」と前を向いた。

 

 1957年ごろ、路地で営業していた店が集まり、大町の長屋に軒を連ねた同横丁。最大で36店が営業し、製鉄業で活気づくまちに憩いの場を提供してきた。2011年の震災時には26店が営業していたが、津波で建物は全壊。同年12月、鈴子町に整備された仮設店舗で15店が営業を再開した。市が大町に整備した本設の飲食店街への移転(3店)、自立再建、店主の死去などで最後に残ったのは6店。5店は本設再建へ意欲はあるものの、期限までに道筋をつけることができなかった。

 

 同飲食店街(48区画)にはオープン時、44店が入居。安くておいしい多様な店が集まり、市民だけでなく市外からの復興支援者、観光客にも人気だった。転勤で釜石を離れる常連客(39)は「いちげんさんでも温かく迎えてくれる。さまざまな人たちと交流でき、貴重な情報交換の場でもあった。また来たいと思っていたのに」と残念そう。

 

 店主らでつくる「釜石はまゆり飲食店会」(山崎健会長)は、14年ごろから本設再建に向けた調査を開始。復興住宅の配置や自宅再建の動向、津波や大雨による浸水状況などを踏まえ、鈴子町が適地として挙がった。釜石駅前のホテル建設計画、ラグビーワールドカップ釜石誘致、橋野鉄鉱山の世界遺産登録の動きも集客要素として期待された。

 

バーを営み、仮設飲食店街のまとめ役として尽力した山崎会長

バーを営み、仮設飲食店街のまとめ役として尽力した山崎会長

 

 「いろいろ考えると鈴子町が最適だったが、(構想が)実現できず非常に残念」と山崎会長(49)。釜石の飲食文化を発信してきた“呑ん兵衛横丁”を「やっぱり残したかった。横丁抜きにして釜石の飲食店再興は厳しいと思う。60年の老舗看板は何ものにも代えがたい」と今後を憂えた。

 

 山崎会長によると、18店のうち本設営業のめどが立っているのは3月30日現在、4店だけだという。

 

(復興釜石新聞 2018年4月4日発行 第678号より)

 

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