橋野鉄鉱山 鍛冶場の遺構確認、台風被害の復旧発掘調査で〜一貫生産を裏付け、「フルヒストリー」の一部を埋める

2017/11/16|カテゴリー:復興釜石新聞 文化・教育

明治初期に再稼働したとみられる鍛冶場遺構は石垣に拡充の痕跡

明治初期に再稼働したとみられる鍛冶場遺構は石垣に拡充の痕跡

 

 釜石市橋野町青ノ木の世界遺産「橋野鉄鉱山」で10月から発掘調査が行われ、これまで関係史料に記載がなかった明治時代初期の鍛冶場とみられる遺構が初めて確認された。橋野で鉄鉱石の採掘から製鉄、加工まで一貫して行われていたことを改めて裏付ける証しとなりそうだ。

 

 今回の調査は、昨年夏の台風10号被害に対応した復旧発掘調査事業で、本年度に現地調査を行い、来年度は報告書を作成する。現場は史跡の入り口から約100メートル、北端(高炉群の最下部)に残る三番高炉跡の南側にあり、御日払所も近い。大雨で表土層の一部が流失した約70平方メートルの範囲を調べた。

 

 発見された遺構には、高熱で焼けた土の跡や鍛造作業をした痕跡があった。耐火レンガ片や「羽口(はぐち)」と呼ばれるふいごの先端も見つかった。食器とみられる陶器片、貨幣とした鉄銭が木の葉状にまとまった「銭竿(ぜにさお)」と、その鋳型もあった。

 

 出土品の一部。羽口と銭竿、生活感を伝える食器片も

出土品の一部。羽口と銭竿、生活感を伝える食器片も

 

 調査を進める市教育委員会総務課文化財保護係の森一欽係長によると、1858年から稼働した橋野高炉に付随し、鍛冶場は何度か造られた。当時の鉱山や製鉄風景を伝える県指定文化財の絵図「紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図」(新日鉄住金釜石製鉄所所蔵)に「鍛冶屋敷」はあるが、発掘場所に関する記載はない。

 

 現場では68(明治元)年まで鉄の生産とともに鉄銭の鋳造も続けられた。翌年、明治政府は公認されない貨幣の鋳造を禁止したが、橋野ではひそかに継続。しかし、71年、県(江刺県)の摘発を受け、一番、二番高炉の解体命令が出された。唯一残された三番高炉は94年まで稼働した。

 

 今回確認された鍛冶場では、三番高炉跡側の石積みに拡充された痕跡があった。また、深さ70センチまで掘った土には粘土と盛り土の層が重なっていた。森係長は「以前に使われた鍛冶場の設備を広げ、造成、再利用したと推察できる」とした上で、「今回の発見は史跡のフルヒストリー(歴史全体)の一部を埋める一つとなる」と成果を強調する。

 

 発掘現場は今月6日から10日まで一般に公開された。調査は間もなく終了、遺構は埋め戻される。

 

(復興釜石新聞 2017年11月11日発行 第638号より)

 

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